2012年5月30日水曜日


拡大し続ける「ウエストライン」、若年層で顕著な肥満の増加 - フランス

【パリ/フランス 20日 AFP】最近の調査によると、フランスでは人口の約3分の1が「太りすぎ」または「肥満」で、ウエストのサイズは拡大し続けているという。
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(c)AFP

 ドイツから日本に一時帰国した際、あらためて気がつかされたのは"日本人は小さい"ということ。身長はもちろん、横幅も狭い。つまり細い。私は日本人女性としては背が高いほうで、細身でもない。が、ドイツでは"小柄"扱いされるのもうなずけるほど、周りのドイツ人は大きい人たちが多い(もちろん背が低い人もいれば、細い人もいることはいる)。
 肥満度をあらわす指数としてBody Mass Index(BMI)というものがある。体重(g)を身長(cm)の2乗で割り、10をかけたもの。標準とされる値は22.0で、18.5未満が「低体重」、16.5~25未満が「標準」、25~30未満が「肥満」、30以上が「高度肥満」と分けられる。

*欧米人の肥満度

2012年5月19日土曜日



【3月3日 AFP】母親がパートタイム勤務している子どもの方が、母親がフルタイム勤務や就労していない場合よりも健康的な傾向があるとの研究発表が、学会誌「Journal of Social Science and Medicine」に掲載された。

 この研究は、欧米における子どもの肥満増加と母親の就労拡大との関連性を調べることを目的に、オーストラリア・メルボルン(Melbourne)の研究機関「Murdoch Childrens Research Institute」のジャン・ニコルソン(Jan Nicholson)准教授が、ニューイングランド大学(University of New England)、オーストラリア国立大学(Australian National University)と共同で実施した。

2012年5月18日金曜日


砂糖は、化学調味料、白米と並んで、"死の三白"と例える方がいます。

それほどとり過ぎは体に良くないのです。

砂糖のとり過ぎで起こる可能性のある疾患を列記すると次のようになります。

・糖尿病  ・低血糖症

・ひどい便秘 高カリウム血症は腸の蠕動をなくし、ひどい便秘をまねく。

・膠原病(リウマチ、SLEその他)  ・肥満  ・高脂血症  ・脂肪肝

・心臓病 心臓病のほとんどは白砂糖の害による相対的高カリウム血症が問題となる。

2012年5月16日水曜日


今年被災地石巻にボランティアに来てくれた方・・
懐かしく感じませんか?・・



昨日の石巻は日中でも気温1度でした。
画像からも枯れ木など、冬の気配が感じられます・・・



現在はシ~ンとして、人っ子ひとりいません。

一時は、ボランティアの方、行政などの視察者、見物客・・
地元以外の人でも、人の気配が感じられましたが

今は・・ほんと、誰も居ません。

とても寂しいですね。

2012年5月15日火曜日


「地下水」という用語の定義を教えてください

    「地下水」という用語の定義について、地下水学会としてまとめたものは残念ながらありません。しかし地下水学会の会員が中心となり「地下水」の用語について定義している身近な出版物がありますのでこれらを紹介します。
    @山本荘毅責任編集(1986)「地下水用語辞典」古今書院発行
    A佐藤邦明編著(2005)「地下水環境・資源マネージメント」埼玉大学
     出版会発行の第1章「地下水とは」ほか

    (以下@、Aの図書の一部を引用)
    @
    地下水は動的な水であり、地下水体の水とそれに接している水を厳密に区別することは困難である。例えば、地下水とその上にある毛管水帯の水を厳密に区別することは困難であり、区別することに本質的な意味は無い。この言葉はかつてsubsurface water とともに地下水の水一般を指したが、現在は
    underground water とともに飽和体の水を指すことに限定されている。
    A
    従来、地下水とは地下水面より下の帯水層に存在する飽和状態の水のことを指す用語であった。しかし、現在では地下水面より上の不飽和状態にある水も含めて地下水とする考え方が取られるようになっている。今日、地下水とは地下に賦存する水の総称である。


地球上に氷の形で存在する真水の代表例として南極やグリーンランドの氷床が挙げられますが、北極等の氷山が挙げられていないのはなぜでしょうか?

    北極は大陸ではなく、海の上に氷が浮かんでいるだけでその面積は人工衛星の観測では500〜600万平方kmであり日本の国土面積の10数倍程度です。また、北極の地域の氷山はアラスカ、グリーンランドなどから氷河の一部が海面へ流れ出たものです。氷の比重と海水の比重の関係から、海面上に顔を出した氷の約9倍の氷が海面下に隠されているのですが、以下に示すように、南極大陸やグリーンランドの氷の量に比べるとほとんど無視できる極めてわずかな量です。
    IPCC(Intergovernmental Panel on Climate Change:気候変動に関する政府間パネル)の2001年の報告書によると、南極大陸には氷床として2,571万立方kmの氷が蓄えられており、その厚さは1,000mをはるかに超えます。一方、グリーンランドにある氷の体積は285万立方kmと推定されており、氷の厚さは最高3,000mを超えます。南極の氷がすべて溶けると61m、グリーンランドの氷がすべて溶けると7.2m海面が上昇すると推定されているほど莫大な氷(淡水)の量です。また、南極やグリーンランドほどではありませんが、ヒマラヤ、南アメリカのパタゴニア地方、ヨーロッパアルプス、カナダ、アラスカなどにも氷河として莫大な量の氷(淡水)が貯蔵されており、一部は大河となって貴重な淡水資源として利用されています。


湧水は地下水ですか?

    湧水も地下水に含まれます。地下水が自然に地上に湧き出してくる現象が湧出であり、その水を湧水と呼びます。湧水の定義は 別のFAQ に説明がありますのでご参照ください。

「湧水」の定義や概念を教えてください。井戸内の水も湧水と呼んでよいのでしょうか?

    湧水に決まった定義があるわけではありませんが、通常、地質条件が整い、地下水が自然に地上に湧き出してくる現象が湧出であり、その水を湧水と呼びます。武蔵野台地の崖線沿いの湧水、富山県の黒部川扇状地の湧水、富士山山麓の湧水など、各地で様々な形の湧水があります。井戸(掘り抜き井戸、突き抜き井戸)を掘削して、自然に湧き出してくる井戸は自噴井であり、湧水とは区別されるべきですが、各地でこの自噴井を湧水と呼び「名水」と称している場合があります。また、自然に湧出する水の量を増やす目的で、湧出場所の近くに井戸を掘削して湧出量を増加させる場合もありますが、これも湧水と呼ぶことが出来るか疑問です。また、地下水の自然の流れが陸地から海底、あるいは湖底まで連続している場合、海底や湖� ��に湧水がみられます。富山湾の海底湧水や琵琶湖の湖底湧水が有名です。動力(ポンプ)によりくみ上げた地下水はもちろん湧水とは呼びません。


地下水は、どうして存在しているのですか? 地中から沸いてくるのですか?

    地下水の起源は、すべて地上に降った雨や雪であり、土壌を通して地下に浸透して、砂や礫(小石)の間に溜まった水です。普通は井戸を掘って井戸水として私たちの様々な用途である、工業用水、農業用水、生活用水として利用します。地下水の溜まっている場所を帯水層と呼び、その深さは地域、場所により様々ですが、通常は数mから200〜300m程度です。地形的な条件により、湧水として地下水が地上に出てくる場所もあります。また、地下1000m以上の深い井戸を掘って各地で利用されている温泉水も、地下水の一種ですが、すべて地上から長い年月をかけて雨や雪が浸透して溜まったものです。川の流れが雨が降らなくてもすぐに途絶えないのも、地下水が河川水のもとになっているためです。地下水は貴重な水資源です。世界では� ��水道水源を地下水に依存している人口が1千万人を超えるような大都会もあります。日本では水道水源や個人の井戸として約4人に1人が毎日、水道水、飲料水として地下水を利用しています。

地下水が存在する帯水層とはどんなものですか?

    地中にしみこんだ雨や雪は、土壌層を浸透して、その下にある砂れき層に到達して地下水は誕生します。砂れき層は文字通り、砂やれき(小石)で構成されており、その間隙(すきま)が地下水の"貯留槽"になります。専門的には「帯水層」と呼ばれ、一般に砂れき層の体積の約3分の1を占めます。砂れき層の厚さは地域により様々で、数メートルから平野部では100メートル以上になる地域もあります。また、河川は川幅が広くても1キロメートル程度ですが、帯水層は平野では地域によっては何10キロメートルの幅で存在します。

地下水位の深度と帯水層の深度はどんな関係にあるのですか?

    井戸の地下水位と帯水層の深度とは直接関係がありません。例えば、井戸の水位が地表面から深度10mの位置にあるからといって、帯水層がそれと同じ深度にあるということではありません。
    地下水の種類には大きく分けて2種類、「被圧地下水」と「不圧地下水」があります。被圧地下水は上下が難透水層でサンドイッチされた状態で帯水している地下水であり、これを取水する井戸は深井戸と呼ばれます。これらの地層中の地下水は遠く離れた山地に降った雨が何年もかけてゆっくりと地下を流れてきたものです。上部は難透水層で覆われ地層に勾配があるため、この帯水層の地下水には水圧がかかっており、井戸を掘削する(難透水層に穴を開ける)と水位は帯水層の深度より上部になります。被圧が大きくなると、地下水位が地表面よりも高くなり湧水となります。
    これに対して、不圧地下水は不透水層が上部にない地下水であり、これを取水する井戸は浅井戸と呼ばれています。不圧地下水は自由地下水面と呼ばれる地下水位が存在し、揚水していない状態では地下水位と井戸の水位はほぼ一致します。降雨などにより水位は上下し、夏になると井戸が涸れた、という現象がみられることもあります。不圧地下水の地下水位の位置は帯水層の中のある深度に存在することになりますが、帯水層全てが地下水で満たされている(飽和されている)とは限らず、ある期間における地下水位の変動幅が帯水層の幅にイコールであるとも限りません。帯水層が存在しても地下水位がない(地下水が無い)場合もあります。
    ちなみに、不圧地下水は地上から直接汚染物質が浸透する可能性があり、有害物質による汚染を受けやすい地下水です。

地下水を汲みあげても汲みあげても無くならないのはなぜですか?

    雨や雪は地中に浸み込み、帯水層に溜まります。この帯水層は主に砂れき層(砂やれき(小石)で構成されている地層)で、その厚さは地域により様々ですが、数メートルから平野部では100メートル以上になる地域もあります。また、河川は川幅が広くても1キロメートル程度ですが、帯水層の幅は、平野では地域によっては何十キロメートルの幅もあります。以上のように、地下水の水量は莫大であり、通常の利用では枯渇することがないことがお分かりいただけたと思います。
    日本では、梅雨時から夏季に降雨が少なくダム湖の貯水量が減少して、これを水源とする水道施設では給水制限が行われることがあります。しかし、地下水を水源とする水道施設では記録的な少雨になっても地下水の量はほとんど低下せず、給水制限が行われることはありません。日本では、地下水を水源にしている水道施設は多く、日本では4人に1人が地下水を飲料水などの生活用水に利用しています。県庁所在地では、人口70万人の熊本市、40万人の岐阜市ではすべて地下水が上水道の水源になっています。
    しかし近年では、地下水を涵養する役割を果たす水田が減反政策のため水を貯めなくなり、また地表面がアスファルト舗装されて雨が地中にしみこまず川に直接流出する割合が増えてきているため、長期的にみると地下水の涵養量は減少しています。地域によっては、湧水が出なくなったり井戸が枯れたりする現象はみられます。一方、日本人の食糧の生産基地の一つである北アメリカでは、地下水を利用して食糧生産が行われていますが、揚水される地下水は1,000年以上も前に地下にしみこんだ降水であり、過剰揚水が指摘されています。近い将来、アメリカの地下水の枯渇が我々日本人の食卓にも影響が出ることも懸念されています。

「年間地下水流出量」とはどういう意味ですか? また「量」とあるのに、なぜ単位はmmなのですか?


日本最大の地下水系を教えてください。

    「日本最大の地下水系」は極めて難しい質問であり、明確な回答をするだけの資料、情報量が国内にはありません。一般に、地下水が豊富にある地域は扇状地と呼ばれる地形が発達した地域です。扇状地は、大きな河川が山地から平野への出口付近にできる粗い礫や砂で形成された扇形に拡がった地形で、全国どこにでもみられます。大きな扇状地は大量の地下水を蓄えており、富山の黒部川、静岡の富士川、熊本の白川などの扇状地が特に有名で、多量に揚水され利用されています。また、扇状地に続く沖積平野も地下水が豊富で、濃尾平野、筑紫平野などでも地下水が豊富です。
    以下に示す、国の機関から全国の地下水に関する情報が発信されており、地域別の地下水利用状況の概要を知ることができるのでご参考ください。

    国交省水資源部:毎年「日本の水資源」が出版(Webサイトに全文掲載)、全国の水資源の利用状況が地域別に分かります。
    環境省:「全国地盤環境情報ディレクトリ」(Webサイトで公表)、地下水の揚水による地盤沈下に関する情報提供がメインですが、地下水の利用、取水状況を知ることができます。
    経産省経済産業政策局:「地下水対策の概況(H21年版)」(Webサイトから全文入手可)


地下水は一般的に等高線に直交するように流れるのですか?

    一般に自然状態においては、浅い深度に存在する地下水の流れる方向は地表面の傾きと調和的であることが多く見られます。従って、地下水の流れを調べるための井戸の情報などが無い場合には、地表面の傾きから概ねの流れ方向を推定することができます。
    ただし、地下水の流れは地質構造に加え、付近の地下水利用実態、地下水の涵養機構、周辺の河川など様々な要素の影響を受けます。このため、地下水の流れをより正しく評価するためには、これら諸要素を勘案した判断が必要です。


地表面から浸透した水(降水など)は蒸発によって失われますが、地中の浅い深度に灌漑した水は必ず地下水へ辿りつきますか?

    以下は1つの考え方としてご参考にしてください。
    地表面から地中へ入り、地下水面にまで達する水(=土壌水)は、鉛直上方に動くポテンシャルをもつものと、鉛直下方に動くポテンシャルをもつものに区分できます。この境界をゼロフラックス面と呼びます。ゼロフラックス面は土壌の水分状態や温度、地表面の日射や風速等の環境条件によって位置(深度)が変化します。例えば降雨時はゼロフラックス面は地表にあり、時間が経過するにつれて徐々に深い深度へ移動していきます。(ゼロフラックス面が2つある場合もありますが、ここでは説明を省略します)
    ゼロフラックス面より深い土壌水は蒸発することがありません。つまり地表(地中)から灌漑した水がゼロフラックス面よりも深い深度に移動すれば、必ず地下水 へ辿りつくことになります。
    なお一般的に土粒子が細かい土壌ではゼロフラックス面が深く、砂などの土壌では浅い傾向にあります。砂では通常、深度20〜30cmより浅い部分に位置すると思います。粘土質の土壌では深度1mよりも深いケースがあります。砂の様なゼロフラックス面が浅い場合の方が、降水が地下水へ到達する確率が高いと言えるのではないでしょうか。一方で、灌漑深度から毛管力などによりゼロフラックス面よりも鉛直上方に移動する水が存在した場合は、その水は常に蒸発するポテンシャルを持つことになり、地下水へは辿りつきません。せっかく灌漑しても蒸発して失われてしまうのでは意味がありませんので、地中灌漑を行う際は、ゼロフラックス面が位置する深度をきちんと把握することが重要と� �います。ただしゼロフラックス面は常に位置が変化する性質のものですから、管理するのは容易ではありません。


雨が地表から浸透し地下水になって地中を流れ、川や海に出るまでどれくらいの時間がかかるのですか?

    地下水は主に帯水層中の間隙や岩石の割れ目を流れています。その流れる速さは地層や岩石の間隙の大きさや、こう結作用(砂を砂岩に変える作用)の進み具合によって、比較的透水性の大きい地層や岩石の中でさえ、数オ−ダーの違いがあります。
    地下水も河川水と同じように高い所から低い所へ流れます。その速さは、1年間に数メートルから数百メートルであり、地形や砂や石の粒度によって大きく変わります。河川水に比較すると非常に遅いことが分かります。
    地表に降った雨などが地下に浸透し、直下の帯水層に到達する時間は、せいぜい数日から1か月程度ですが、帯水層を流動する速度は遅く、上記のように1キロメートル流れるのに、何年もかかります。つまり、地下水が涵養されてから流出するまでの時間は地下水流域の地層や岩石の性質により異なりますが、数ヶ月〜数百年、さらに地下数百メートル以深に存在する地下水はもっと長い時間かかります。
    一例として紹介しますが、トリチウム(半減期12.3年の水素の同位体)などを使った研究では神奈川県の秦野盆地(更新世の扇状地砂礫層)の地下水は7〜8年、富士山の山麓(約1万年前の溶岩流)の湧水は数年〜十数年かかるとされています。

地下水が何年前の水か(雨として降ってから何年経っているか)を調べる方法を教えて下さい。

    地下水の年齢の一般的な測定方法は、対象とする試料(水)の中に含まれるトリチウムと呼ばれる放射性物質の濃度を測定します。トリチウムは、宇宙線の働きによって大気中で生成する天燃の放射性物質です。生成したトリチウムは大気中で雨や雪に溶け込み、降水として地上の降り、さらに地下に浸透して地下水になります。トリチウムの半減期は約13年で、半分が放射能をもたない物質に変化します。言い換えると、雨が地上に降って、地下に浸透してから、13年後にはトリチウム濃度が半分になります。26年後には4分の1になります。このように、地下水のトリチウム濃度を測定して、現在の雨のトリチウム濃度と比較することにより、地下水の年齢を知ることができます。
    ただ残念なことに、この数10年、100年前から現在まで雨� ��トリチウム濃度は、過去の原爆実験の影響で一定でありません。このことが、正確な年齢を出すことを困難にしています。従って、現実には30年前、40年前といったはっきりとした年齢を出すことはできません。結果は「50年より前の古い水」のような表現になります。
    測定は水に含まれるトリチウムのもつ微弱な放射能であり、測定機関も限られてしまいます。財団法人放射線計測協会(茨城県東海村)などにお問い合わせ下さい。


地下水に「新しい水」「古い水」といった分類はあるのですか?

2012年5月13日日曜日


science

 

  ----「感覚で把握できる現象世界からいったん離れて、眼をもっと高い
理念の領域へ向けるようにしてみてくれ。」ゾルガー「エルヴィン」より------

 

 ずいぶん大仰なタイトルをつけて、科学史専攻の方からは批判もあるでしょうが、今西自然観を科学の殿堂録と照合する作業のために、まず、とくに物理学の歩んだ道に従って検討してゆきたいと思います。

 


科学の曙 

 近代科学の創出者を一人あげよと言われれば、アイザック・ニュートンの名前がうかぶところは、多くの方の認めるところでしょう。科学草莽期に活躍した英雄としては、ニュートンはじめ、コペルニクス、ケプラー、ガリレイ、デカルトなどの名前があげられます。これらの人々の共通項としてまず言えることは、神への信仰があつかったことでしょうか。神の世界の探究、哲学を、後世から科学とよばれる方法を通して行ってきたのです。 

 実証的であった、経験を重んじた、合理的であったことだけが、西洋で科学が発生した根本の原因ではありません。現象の背後に客観的真理を追究する哲学と、多様な世界を唯一なる神に帰する信仰のあるところに科学は生まれたのです。この時期にユダヤ・キリスト教の一神教の思想の背後に、ヘルメス主義、新プラトン主義がちらちら見えかくれして、科学者の知的創造に影響を与えています。法則の発見は、合理的判断というより神秘的直観と形容したほうが本質をついているのです。

 自動飛行に切り替えたアポロ船に向けて、今誰が操縦しているのかと地上の人が信号をおくったとき、乗組員は「アイザック・ニュートンです」というウイットに富んだ言葉を返したといいますが、宇宙にまで人間をおくりだした現文明の表舞台をなでてゆく多くの栄光は、この時代の愛知者による神への信仰心に帰すると言ってもなんら間違いはないでしょう。科学の使命とは、大自然、大宇宙の中に隠された神の法則を発見することであったのです。近代科学は神に到る道であったのです。

 この神への信仰が、合理性信仰、理神論となり、神=自然=三次元物質界と曲解され、物質界への探究、無神論へと流れてゆきます。百科全書派を中心とする「聖俗革命」以降の科学は、祖師たちが探究していた対象を失いました。それでも科学者が尊敬されていた理由は、医学など人命への奉仕、ストイックな克己心、自助努力の姿、技術として文明への貢献といった、科学者の人格や実際に物質的繁栄をおしすすめた評価によるのでしょう。

 科学という人類がせっかく手にした幸福へのまばゆい情熱を、唯物論、軍事兵器、環境問題といった諸問題と共倒れにさせないためにも、科学とは何であったのかを考えてみたいと思うことを序文にしたいと思います。

 


科学の方法

(1)再現性とその限界

 科学の方法論は、様々に解釈されています。教科書的には、哲学の方法が演繹と呼ばれるのに対し、科学は帰納、すなわち様々なデータを集め、そこから導かれる共通性、法則の発見といわれています。共通性というのは、いつやっても、誰がおこなっても時間対象的に同じ結果がえられることであり、これが真理という万人共通の法則を発見できる根拠になっています。そこで、その共通性を高めるために客観的な測定が求められ、すなわち数値という数学言語と、統計による信頼度が必要となっています。

 このように、いつやっても、誰がやっても同じ結果をえるという再現可能性とその信用が、科学の方法として言われています。再現可能性は、科学技術のためには不可欠です。生活の利便をすすめてゆくためには、他の人が操作すると違う製品ができたり、今日効く薬が明日効かなかったら、科学技術の信頼性などはなくなってしまいます。

 しかし、この方法には方法論自体の限界があることは、よく指摘されるところのものです。様々な研究者が美とか善悪などを数値に置き換えることを試みようとも、一般の人が信頼しなければ、その一部の学会の人だけの真理となります。そもそも感覚として得られた現象の数値化は、絶対真理ではなく、「ヒト」に対しての相対真理であることはまぬかれないのです。

 この、データの数値化が誰に対しても客観的であるかという問題と、さらに歴史的一過性の現象については、この方法は用いることができないということです。このことを突き詰めると、人類が存在しない宇宙に、客観的真理などあるのだろうかといった人間原理のような話や、物理定数は普遍であるか、といった問題になってゆきますが、実際、ある時代まで存在しなかったグリセリンの単結晶が、ある地点で突然結晶化し、以後各地で結晶化が確認された報告例があります。ニュー・サイエンス嫌いの方が、ここで読むのをやめても困るので、例はあまりあげませんが、「歴史」というなかに「一般の科学」の枠では見ることのできない範囲があることを書いておきます。水が100℃で沸騰するという科学的事実も宇宙が創ら れて何秒という時代には真理ではない、というのは歴史の問題です。

 逆に言えば、再現可能な現象など本当はこの世には存在しません。同じ川には足を入れることはできないのです。しかし、その中で時間の前後に束縛されていない現象を抽出し、それを科学で扱える問題として、数値化したり観察したりするのです。

2012年5月11日金曜日


ウユニ塩原

ボリビアの首都ラパスを昨夜21時に出発した長距離バスは、ひどい悪路を走り続け、10時間後の朝7時にウユニに到着した。ボリビア南西部、ラパスから550km離れた標高3,660mにあるウユニは、塩の生産とウユニ塩原観光を主要産業とした人口1万人の小さな町。

バスを降りるとウユニ塩原ツアーを催行するBrisa Toursのスタッフが客引きをしていたので、オフィスに着いて行って、このあと11時からの一泊二日のウユニ塩原ツアー(45USドル)に参加することにした。このツアーは、ラパスのバスターミナルで出会ったIさんのほか、卒業旅行で南米を旅している三人の女子大生と、NY在住で南米旅行中の日本人男性も一緒だった。

僕ら七人を乗せたランクルは、11時にウユニを出発。列車の墓場と呼ばれる場所へ向かった。ここにはかつてこの地で使われていた蒸気機関車が放置されていて、朽ちるに任されている。アンデスの大地に横たわる錆びれた廃列車は遺跡のようだった。列車の墓場を後にしてしばらく走ると、真っ白な景色が広がり始めた。

ウユニ塩原の端にある塩の採掘所で車を降りた。塩の地面はアスファルトのように固い。足元の塩を採って舐めてみると当然しょっぱい。ウユニ塩原の塩の採掘は、地面をシャベルで掘って高さ1mほどの山にして、数日間日干しにしたものをトラックで町へ運ぶそうだ。

塩の採掘所の周辺は水が溜まっていて、その水に空の色が滲んで幻想的な光景になっていた。ウユニ塩原があるボリビアのアンデスは、11月~3月が雨季、4月~10月が乾季になる。今はちょうど雨季が終わり乾期が始まる頃なので、塩湖(Salt Lake)が塩原(Salt Flat)へと変わる時期。ウユニ塩原は、「ウユニ塩湖」とも言うが、今の状態は「ウユニ塩原」が正しいだろう。雨季は天気がいいとウユニ塩原に薄く張った水が空を映し出し「アンデスの鏡」と言われる状態になる。その時は空の中に立っているような体験することができるそうだ。

永遠に続くかのような真っ白な世界をひた走り、ウユニ塩原の上に建つ塩のホテルへと向かった。真っ白な大地と真っ青な空の間に挟まれていると不思議な気持ちになる。どこか別の惑星にいるような感じだ。

2012年5月10日木曜日


回答にはなっていないかも知れませんが・・・
参考までに・・・

大学に行くと図学という授業があって
角のn等分線を書くとか、作図に関することを勉強する学問があります。
教科書自体は非常に簡単で、中学卒業程度の数学の知識があれば、充分読めたと記憶しています。

2012年5月8日火曜日


 極寒の南極で消息を絶った科学者チームにまつわる謎が深まっている。ボストーク湖は、厚さ1600メートルという氷の下に閉じ込められた氷底湖だ。その湖水は2000万年以上大気と触れていない。

「ロシア北極/南極研究所(AARI)」が、ドリルによる掘削でこの湖の水質調査を試みている。湖水があるのは地表から3900メートルあまりの場所で、作業に当たっていたAARIチームは、他の国から派遣された調査隊と行動を共にしていた。しかし、ボストーク湖の解明が進む中、突如として彼らとの交信が途絶えてしまったのだ。

彼らに何が起きたのか? 

2012年5月6日日曜日



 ガラパゴス諸島はユネスコ世界遺産に認定されていますので、観光の際には守るべきルールがいくつかあります。

 何も持って返ってはいけませんし、落として行ってもいけません。また道を外れて、ガイドなしで歩いてもいけません。

 もちろん動物が多く生息するエスパニョーラ島、フロレアーナ島、フェルナンディナ島、イサベラ島にはお手洗いは

 ございません。どこかで隠れて済ますという事も禁止されています。

2012年5月5日土曜日


昨年末のクリスマス明けにシカゴを訪れた。目的は二つ。3年ほど前に、仕事の関係でSFベイエリアからシカゴに転居した友人夫妻を訪ねる事と、アメリカの近代建築史に名を留める有名な建築物を見る事だった。アメリカに二十何年か住んでいるが、まだ行ったことが無かったというのも理由の一つだ。

郊外住宅

友人夫妻の住む家は、シカゴ中心地より北西に30マイル強、渋滞がなければ車で4〜50分の距離にある、典型的なアメリカの郊外型住宅だ。ただしカリフォルニアの住宅地と違い、隣家の敷地との境界に塀がないので、雰囲気はずいぶん異なる。

中の上クラス位の辺りの住居は、家も大きいが敷地も広いので、見た目は林の中にパラパラと家が建っている感じ。 SFベイエリア近辺で云ったら、レイク・タホの別荘地に似た雰囲気だ。

2012年5月3日木曜日



六甲山は、古代、むこうやま(向山)と呼ばれていました。
あの武庫川も、じつは、むこうがわ(向川)なのです。
各地に向山と呼ばれる山がありますが、古くからの神聖な山に多い名です。

未確認飛行物体の飛来地でもありますが、
不思議なことがよく起こる、ちょっとしたミステリースポットです。

標高1000メートルもないこの山は、多くの観光客でにぎわう人気の山です。
軽い気持ちで、登山客も訪れますが、
毎年、かなりの人が道に迷い、遭難寸前になる危険な山でもあります。
遭難事故で死亡する人も過去5年で10人にのぼります。

2年ほどまえ、六甲山でバーベキューをした西宮市職員が、
下山するとき道に迷い、遭難する事故がありました。
10月とはいえ、山頂の気温はほぼ青森と同じで、夜はかなり冷え込みます。
山道を踏み外し、骨盤骨折で身動きがとれなくなりました。

2012年5月1日火曜日


科学者の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

科学者コーナー

★32名




★アルバート・アインシュタイン/Albert Einstein 1879.3.14-1955.4.18(USA、デラウェア川 76歳)2009
Cremated, Ashes scattered, Delaware-river in New Jersey


1879年南ドイツ生まれ。6歳の頃からバイオリンを習う。中学校(ギムナジウム)の授業になじめず、歴史、地理、語学の単位が得られなかった。16歳でとうとう学校を中退してしまう。両親に説得されてスイス連邦工科大学の入試を受けたが不合格となり、翌年再チャレンジして同校に入学。同級生からノートを借りるなどして卒業試験を突破する。卒業後の2年間は家庭教師でやりくりし、次にスイス特許局の特許審査技師の職につく。24歳で大学時代の同級生と結婚(2児をもうけるも40歳で離婚、後に再婚)。そして1905年!彼は独学で研究した革命的科学論文「特殊相対性理論」を執筆する(26歳)。この理論で彼は、物体は移動速度が光速に近づくほど時間の進み方が遅くなり「時間は伸び縮みする」と説き、有名なE = mc2(エネルギー=質量X光速度の二乗)の公式を発表した。物理学界は無名の特許局職員が出した論文で大騒ぎに!欧州各大学からアインシュタインに物理学部長のイスが用意された。次に彼は10年の歳月を費やして「一般相対性理論」をまとめあげ、重い物体の周りでは重力によって光も曲がり、空間がゆがめられると説いた。3年後、これが日食の観測で証明され彼の名声は世界中に広がった(40歳)。ノーベル物理学賞の受賞は42歳。以降、彼は自身の名声を武器に作家ロマン・ロランらと平和・民主主義を訴え、社会運動を推し進める。そしてヒトラー政権となったドイツを去りアメリカに移住した(54歳。ナチスはユダヤ人の彼の全財産を没収したうえ、その身に懸賞金をかけた)。彼はナチスが原爆の製造を企てている事を� ��り、数人の物理学者と共同でルーズベルト大統領に原爆研究を薦める手紙を出す。
※後年、「あの手紙に署名したことは人生最大の間違いだった」と彼は語っている。ノーベル賞を受賞した湯川秀樹夫妻と初めて対面したアインシュタインは、夫妻の手をとり涙を流して「日本の人々に誠に申し訳なかった」と詫びたという。
※ノーベル賞の受賞対象となった研究は相対性理論ではなく「光電効果の説明」。当時の物理学界は光を波と捉えていたが、アインシュタインは「光は波の性質を備えた"粒子"である」と解き明かした。

大戦後、彼は2度と戦争をおこさないため、軍縮および世界連邦樹立を目指し、各国の政府に絶えずはたらきかけた。ユダヤ国家の建国運動も支援していたので、イスラエルの初代大統領就任を求めら れたが、「私は単純過ぎて政治には向かない」と辞退した。死の2日前に、彼は各国の著名な知識人と共同で核兵器廃絶と戦争廃止のための平和声明を発表し、世界連邦の実現を夢見ながら1955年4月18日午前1時、その生涯を閉じた。

●アインシュタイン語録〜ユーモアと社会派メッセージ
「科学的真理は私の宗教だ」
「想像は知識にまさる」
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
「もし私がヒロシマとナガサキのことを予見していたら、1905年に発見した公式を破棄していただろう」
「熱いストーブの上に1分間手を載せてみて下さい。まるで1時間ぐらいに感じられるでしょう。ところが可愛い女の子と一緒に1時間座っていても、1分間ぐらいにしか感じられない。それが時間の相対性とい� ��ものです」
「学校で学んだことを一切忘れてしまった時になお残っているもの、それこそ教育だ」
「恋に"落ちる"ことは重力の責任ではない」
「もし、私の理論が正しいと認められるならば、ドイツ人は私をドイツ人であるというでしょうし、フランス人は私を国際人であるというでしよう。しかし、私の理論が世に認められないとすれば、フランス人は私をドイツ人だと呼ぶでしょうし、ドイツ人は私をユダヤ人だというでしょう」
「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目だ」
「第三次世界大戦がどのように戦われるかは分からない。だが、第四次世界大戦が戦われる方法は知っている。それは棒きれと石でだ」
「私には政治より方程式の方が重要です。なせなら政治は当面の事に関わるものです� �、方程式は永遠に関わるものだからです」
「兵役を指名された人の2%が戦争拒否を声明すれば、政府は無力となります。なぜなら、どの国もその2%を越える人を収容する刑務所のスペースがないからです」
「この世から未来永劫消えないものは二つだけ--『宇宙』と『人間の愚行』だ。ただ、宇宙のほうは断言できない」
「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」

※東大でドイツ文学を教えている中澤英雄教授のサイトによると、アインシュタインが日本の天皇制を賛美したというのはデッチあげのインチキ記事とのこと。
※菜食主義者で睡眠時間は1日10時間とタップリ。3、4時間くらいしか眠ってないイメージがあるけどねぇ。
※アインシュタインは4歳になるまで話すことができず、7歳まで文字が読めな� ��った。それでも後年に相対性理論を築きあげたわけで、世間の親は我が子の発育の遅さをあまり心配しなくていいと思う。


★コペルニクス/Nicolaus Copernicus 1473.2.19-1543.5.24 (ポーランド、フロムボルク 70歳)2005
Saint John's Cathedral, Frombork, Poland

コペルニクスが眠るフロムボルクは、ポーランドのほとんど北端。町には北方の海に面した港がある。鉄道は一日に一本しかこず、バスが主な交通手段だ。



到着したのは21時。当然、墓のある大聖堂は閉まっている為、謁見の楽しみは翌朝に延びた。



英語が通じない駅の切符売り場やバス乗り場で、親身になってチケットをとってくれ、また時刻表には載っていない
ローカル線の貴重な情報を教えてくれたシルベスターさん。彼との出会いがなければフロムボルクには行けなかったし、
ポーランドからフィンランドまで、バルト三国をバスで突破する方法も分からなかった。2005年の巡礼の大恩人!

※なんとこの3ヵ月後、yahooニュースでこんな記事が!

【ベルリン2005年11月3日共同】地動説を唱えたポーランドの天文学者ニコラス・コペルニクス(1473−1543)の可能性がある遺骨が同国北部フロムボルクの大聖堂地下から見つかった。同国シチェチン大学のカロル・ピアセツキ教授が3日、明らかにした。コペルニクスは大聖堂に埋葬されたとみられていたが、遺骨は確認されていなかった。同教授は共同通信の電話取材に「(遺骨により)復元した顔から見てほぼ間違いない」と語った。今後、DNA鑑定で最終確認を目指すという。シチェチン大などのチームが大聖堂の深さ約2メートルの場所からこの夏、男性の遺骨を見つけた。

「この夏発見」ということは僕がしつこく訊きまくったから、その後に探し始めたとか!(まさかね〜)

※3年後の08年11月に続報が入りました!コペルニクス確定です!
【DNA鑑定でコペルニクスの遺骨確認】
地動説を唱えたポーランドの天文学者コペルニクスとみられる遺骨を調査したスウェーデンの研究者らは、DNA鑑定の結果、本人と確認されたと発表した。別に残されていた本人の毛髪とDNA配列が一致したのが理由という。
同国の警察関係者が頭蓋骨などから復元した顔と、コペルニクスの肖像画はよく似ているという。コペルニクスの遺体捜しは、同国やドイツなどの研究者らにより長年続いていたが、今回の鑑定によってようやく終止符が打たれることになった。
ポーランドの考古学者が2005年に、同国北部フロムボルク大聖堂でコペルニクスとみられる頭蓋骨を発見。死亡推定年齢は60〜70歳で、コペルニクスの死亡年齢と一致したが、本人のものとは断� �できなかった。
最終的に、スウェーデンのウプサラ大学のDNA鑑定専門家のマリー・アレン氏が、かつてコペルニクスが所有していた本に挟まれていた毛髪と、大聖堂で発見された頭蓋骨を鑑定。今回の結論に至った。[2008年11月21日23時27分/日刊スポーツ・コム]

★ガリレオ・ガリレイ/Galileo Galilei 1564.2.15-1642.1.8 (イタリア、フィレンツェ 77歳)1994&2004

Santa Croce Church, Florence, Toscana, Italy


1564年イタリア・ピサ生まれ。ピサ大学で哲学と数学を学んでいたが、21歳のころ学資不足で退学する。彼はピサの大聖堂でランプが揺れるのを見てるうちに、振り子が往復する時間は揺れの大きさやおもりの重さに関係なく、ロープの長さによって決まることを発見した。また、当時は"物体の落下速度は落下物の重さに比例する(アリストテレス)"と信じられていたが、ピサの斜塔から大小2つの鉛の玉を同時に落とし、軽くても重くても落下速度は同じことを証明した。その後、ガリレオは自分で天体望遠鏡を制作し、人類で初めて宇宙を望遠鏡で観測(46歳)、天の川が星の集団であること、月にはクレーターがあること、木星に複数の月があることに気づいた(3年後には太陽の黒点も発見する)。木星の周囲を月が回っているの� �見たガリレオは、"すべての星は地球の周りを回っている"とする天動説に疑問を抱き、コペルニクスの地動説を支持するようになった。
※ピサの斜塔の落下実験の逸話は弟子ヴィヴィアーニの創作で、実際は空気抵抗の影響を減らすために、斜面で鉛玉を転がしたらしい。

1616年、コペルニクスの本が発禁になり、ガリレオは「コペルニクスの説について口頭でも文書でも議論してはならない。地球が動いているという概念に固執すべきでない」という教会命令を受け、"地動説は真理ではない"と宣誓書を書かされた(52歳。有名な「それでも地球は回っている」はこのとき呟いたもの)。それから17年後、なおも地動説に固執するガリレオは異端審問所から「異端の重大な疑いあり」としてローマへの出頭命令をうけた(69歳)。 判決は終身禁固刑!これは後に監視付きの軟禁に減刑されたものの、死ぬまで謹慎は続いた。彼の著作は燃やされ、判決文が全大学で公示された。
晩年、ガリレオは失明し77歳で没した(死後100年間墓を作ることも許されなかった)。死の4年前、彼は軟禁中の家からオランダの出版業者に、コペルニクスを支持する著作(新科学対話)の原稿を密輸した。彼の有罪判決がヴァチカンの誤りとカトリック教会から正式に認められ破門が解かれたのは、死後350年を経た1992年(1983年?)、ローマ法皇ヨハネ・パウロ2世によってであった(ついこの前じゃん!)。

世間で"常識"とされるものに異論を唱えるのは、狂人扱いされるリスクに対する覚悟がいる。中世の場合ヘタをすれば異端者として火刑に処される可能性もあった。にもか� ��わらず自分の信念を曲げなかったガリレオの勇気を、真実を命懸けで語った生き様を、学校の授業でもっともっと大きく伝えるべきッ!

「ガリレオは、世界がどう動いているか人間は理解しようと試みることが出来るし、さらに現実の世界を観測することによってそれが達成可能だと論じた、最初の一人だった」(スティーブン・W・ホーキング)


★ニュートン/Sir Isaac Newton 1642.12.25-1727.3.20 (イギリス、ロンドン 84歳)2005

Westminster Abbey, London, England
「天体の運動は計算できるが、人の気持ちはとても計算できない」(ニュートン)

ガリレオが亡くなった1642年、ニュートンは英国の片田舎で生まれた。父親は彼が生まれるのを見ずに肺炎で落命し、母親は彼を祖母に預けて再婚した。祖母と2人きりの寂しい生活は、彼の内向的で孤独な、そして思慮深い性格を形成していく。成長したニュートンはケンブリッジ大学に進んだ。23歳の時にペストの大流行で学校が閉鎖され故郷の田舎へ戻る。この里帰りは23〜25歳のわずか1年半だが、後世の人々は後に『ニュートン、驚異の1年半』と呼ぶことになる。彼の3大発見(万有引力、光の分析、微分積分法)がこの時期に集中したのだ。

一般にリンゴが木から落ちるのを見て彼が引力に気づいたと言われているが、正確にはちょっと違う。このエピソードには後半があって、「リンゴは落ちてくるのに、なんで月はいつまでた� ��ても落ちてこないんだろう?」と続く。つまり、リンゴではなく月に疑問を持ったんだ。そして彼はこう結論を得た--「月が軌道を外れて宇宙の彼方に飛んで行かないのは、地球へ落下し続けているからだ。飛んで行こうとする力を落下が抑えてるんだ。月は浮かんでるようにみえるけど、常に落ちてるんだッ!」と。彼はこの世に存在するものすべてに引力があることを発見した。※リンゴにも引力がある。リンゴが地球に落ちる時、観測不能なほど僅かだけど地球の方もリンゴに向かって落ちている!
地球と月の間に働く力を計算する過程で微分積分の計算方法を発見した後、彼は光の研究に取り掛かる。ニュートンは光がプリズムを通すと七色に分かれることに注目し、一度分けた七色の光を混ぜ合わせると白い光に戻るという� ��とに気づいた。そして、白色光がすべての色の混合であることを実験で確認した。

ところが。こうした重要研究や発見について、当時のニュートンは何の発表もしなかった。彼は学会で行なわれる学者同士の批判合戦に閉口していたし、何より創造することが最大の喜びであり発表は二の次だったのだ。彼は新しい興味の対象を見つけては研究に没頭するという生活を続けていた。29歳の時に反射望遠鏡を完成し王室へ献上すると、にわかに世間に注目され、彼は「望遠鏡より光の研究の方がすごいのに…」と光の特徴について論文をまとめた。すぐさま無理解な物理学者たちから悪意に満ちた反対論をぶつけられ、彼の発表恐怖症はいっきに悪化し、それ以後12年間も研究室に引きこもっってしまった。
親しい友人たちは、ニュ� ��トンがとっくに発見している成果を、他の科学者(ライプニッツなど)が学会に「新発見」として報告するたびに、悔しい思いに駆られていた。中でもエドモンド・ハレー(彗星の研究で有名)は、ニュートンの万有引力に関する研究ノートを見て腰を抜かし、「一日でも早く発表するように」と熱烈に説得した。ニュートンはハレーの熱意に感激して、物体の運動や引力の原則をまとめた自身の研究の集大成『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』全3巻の執筆に入った。ハレーは『プリンキピア』の出版の為に、学会でニュートン擁護の論陣を張り、出版費用の不足分を負担するなど大奔走した。
ときにニュートン44歳、科学史上不朽の名著『プリンキピア』はこうして日の目を見た。人類はニュートンのおかげで自然界の現象 を初めて秩序立てて理解することが出来るようになった。

この後、強度の鬱病にかかったこともあり、創作活動は後年に『光学』を出版するのみにとどまった。晩年は造幣局長官、王立協会(世界で最も権威のある学術協会のひとつ)の会長などを歴任し、63歳でナイトの称号(科学者としては初めて)を受けている。
彼の墓には次のような銘文が彫られている--『神は言われた"ニュートン出でよ"。すると全てが明るくなった』