2012年5月1日火曜日

科学者の墓


科学者の墓
世界恩人巡礼大写真館 【English Version】

科学者コーナー

★32名




★アルバート・アインシュタイン/Albert Einstein 1879.3.14-1955.4.18(USA、デラウェア川 76歳)2009
Cremated, Ashes scattered, Delaware-river in New Jersey


1879年南ドイツ生まれ。6歳の頃からバイオリンを習う。中学校(ギムナジウム)の授業になじめず、歴史、地理、語学の単位が得られなかった。16歳でとうとう学校を中退してしまう。両親に説得されてスイス連邦工科大学の入試を受けたが不合格となり、翌年再チャレンジして同校に入学。同級生からノートを借りるなどして卒業試験を突破する。卒業後の2年間は家庭教師でやりくりし、次にスイス特許局の特許審査技師の職につく。24歳で大学時代の同級生と結婚(2児をもうけるも40歳で離婚、後に再婚)。そして1905年!彼は独学で研究した革命的科学論文「特殊相対性理論」を執筆する(26歳)。この理論で彼は、物体は移動速度が光速に近づくほど時間の進み方が遅くなり「時間は伸び縮みする」と説き、有名なE = mc2(エネルギー=質量X光速度の二乗)の公式を発表した。物理学界は無名の特許局職員が出した論文で大騒ぎに!欧州各大学からアインシュタインに物理学部長のイスが用意された。次に彼は10年の歳月を費やして「一般相対性理論」をまとめあげ、重い物体の周りでは重力によって光も曲がり、空間がゆがめられると説いた。3年後、これが日食の観測で証明され彼の名声は世界中に広がった(40歳)。ノーベル物理学賞の受賞は42歳。以降、彼は自身の名声を武器に作家ロマン・ロランらと平和・民主主義を訴え、社会運動を推し進める。そしてヒトラー政権となったドイツを去りアメリカに移住した(54歳。ナチスはユダヤ人の彼の全財産を没収したうえ、その身に懸賞金をかけた)。彼はナチスが原爆の製造を企てている事を� ��り、数人の物理学者と共同でルーズベルト大統領に原爆研究を薦める手紙を出す。
※後年、「あの手紙に署名したことは人生最大の間違いだった」と彼は語っている。ノーベル賞を受賞した湯川秀樹夫妻と初めて対面したアインシュタインは、夫妻の手をとり涙を流して「日本の人々に誠に申し訳なかった」と詫びたという。
※ノーベル賞の受賞対象となった研究は相対性理論ではなく「光電効果の説明」。当時の物理学界は光を波と捉えていたが、アインシュタインは「光は波の性質を備えた"粒子"である」と解き明かした。

大戦後、彼は2度と戦争をおこさないため、軍縮および世界連邦樹立を目指し、各国の政府に絶えずはたらきかけた。ユダヤ国家の建国運動も支援していたので、イスラエルの初代大統領就任を求めら れたが、「私は単純過ぎて政治には向かない」と辞退した。死の2日前に、彼は各国の著名な知識人と共同で核兵器廃絶と戦争廃止のための平和声明を発表し、世界連邦の実現を夢見ながら1955年4月18日午前1時、その生涯を閉じた。

●アインシュタイン語録〜ユーモアと社会派メッセージ
「科学的真理は私の宗教だ」
「想像は知識にまさる」
「常識とは18歳までに身につけた偏見のコレクションのことをいう」
「もし私がヒロシマとナガサキのことを予見していたら、1905年に発見した公式を破棄していただろう」
「熱いストーブの上に1分間手を載せてみて下さい。まるで1時間ぐらいに感じられるでしょう。ところが可愛い女の子と一緒に1時間座っていても、1分間ぐらいにしか感じられない。それが時間の相対性とい� ��ものです」
「学校で学んだことを一切忘れてしまった時になお残っているもの、それこそ教育だ」
「恋に"落ちる"ことは重力の責任ではない」
「もし、私の理論が正しいと認められるならば、ドイツ人は私をドイツ人であるというでしょうし、フランス人は私を国際人であるというでしよう。しかし、私の理論が世に認められないとすれば、フランス人は私をドイツ人だと呼ぶでしょうし、ドイツ人は私をユダヤ人だというでしょう」
「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目だ」
「第三次世界大戦がどのように戦われるかは分からない。だが、第四次世界大戦が戦われる方法は知っている。それは棒きれと石でだ」
「私には政治より方程式の方が重要です。なせなら政治は当面の事に関わるものです� �、方程式は永遠に関わるものだからです」
「兵役を指名された人の2%が戦争拒否を声明すれば、政府は無力となります。なぜなら、どの国もその2%を越える人を収容する刑務所のスペースがないからです」
「この世から未来永劫消えないものは二つだけ--『宇宙』と『人間の愚行』だ。ただ、宇宙のほうは断言できない」
「死とはモーツァルトが聴けなくなることだ」

※東大でドイツ文学を教えている中澤英雄教授のサイトによると、アインシュタインが日本の天皇制を賛美したというのはデッチあげのインチキ記事とのこと。
※菜食主義者で睡眠時間は1日10時間とタップリ。3、4時間くらいしか眠ってないイメージがあるけどねぇ。
※アインシュタインは4歳になるまで話すことができず、7歳まで文字が読めな� ��った。それでも後年に相対性理論を築きあげたわけで、世間の親は我が子の発育の遅さをあまり心配しなくていいと思う。


★コペルニクス/Nicolaus Copernicus 1473.2.19-1543.5.24 (ポーランド、フロムボルク 70歳)2005
Saint John's Cathedral, Frombork, Poland

コペルニクスが眠るフロムボルクは、ポーランドのほとんど北端。町には北方の海に面した港がある。鉄道は一日に一本しかこず、バスが主な交通手段だ。



到着したのは21時。当然、墓のある大聖堂は閉まっている為、謁見の楽しみは翌朝に延びた。



英語が通じない駅の切符売り場やバス乗り場で、親身になってチケットをとってくれ、また時刻表には載っていない
ローカル線の貴重な情報を教えてくれたシルベスターさん。彼との出会いがなければフロムボルクには行けなかったし、
ポーランドからフィンランドまで、バルト三国をバスで突破する方法も分からなかった。2005年の巡礼の大恩人!

※なんとこの3ヵ月後、yahooニュースでこんな記事が!

【ベルリン2005年11月3日共同】地動説を唱えたポーランドの天文学者ニコラス・コペルニクス(1473−1543)の可能性がある遺骨が同国北部フロムボルクの大聖堂地下から見つかった。同国シチェチン大学のカロル・ピアセツキ教授が3日、明らかにした。コペルニクスは大聖堂に埋葬されたとみられていたが、遺骨は確認されていなかった。同教授は共同通信の電話取材に「(遺骨により)復元した顔から見てほぼ間違いない」と語った。今後、DNA鑑定で最終確認を目指すという。シチェチン大などのチームが大聖堂の深さ約2メートルの場所からこの夏、男性の遺骨を見つけた。

「この夏発見」ということは僕がしつこく訊きまくったから、その後に探し始めたとか!(まさかね〜)

※3年後の08年11月に続報が入りました!コペルニクス確定です!
【DNA鑑定でコペルニクスの遺骨確認】
地動説を唱えたポーランドの天文学者コペルニクスとみられる遺骨を調査したスウェーデンの研究者らは、DNA鑑定の結果、本人と確認されたと発表した。別に残されていた本人の毛髪とDNA配列が一致したのが理由という。
同国の警察関係者が頭蓋骨などから復元した顔と、コペルニクスの肖像画はよく似ているという。コペルニクスの遺体捜しは、同国やドイツなどの研究者らにより長年続いていたが、今回の鑑定によってようやく終止符が打たれることになった。
ポーランドの考古学者が2005年に、同国北部フロムボルク大聖堂でコペルニクスとみられる頭蓋骨を発見。死亡推定年齢は60〜70歳で、コペルニクスの死亡年齢と一致したが、本人のものとは断� �できなかった。
最終的に、スウェーデンのウプサラ大学のDNA鑑定専門家のマリー・アレン氏が、かつてコペルニクスが所有していた本に挟まれていた毛髪と、大聖堂で発見された頭蓋骨を鑑定。今回の結論に至った。[2008年11月21日23時27分/日刊スポーツ・コム]

★ガリレオ・ガリレイ/Galileo Galilei 1564.2.15-1642.1.8 (イタリア、フィレンツェ 77歳)1994&2004

Santa Croce Church, Florence, Toscana, Italy


1564年イタリア・ピサ生まれ。ピサ大学で哲学と数学を学んでいたが、21歳のころ学資不足で退学する。彼はピサの大聖堂でランプが揺れるのを見てるうちに、振り子が往復する時間は揺れの大きさやおもりの重さに関係なく、ロープの長さによって決まることを発見した。また、当時は"物体の落下速度は落下物の重さに比例する(アリストテレス)"と信じられていたが、ピサの斜塔から大小2つの鉛の玉を同時に落とし、軽くても重くても落下速度は同じことを証明した。その後、ガリレオは自分で天体望遠鏡を制作し、人類で初めて宇宙を望遠鏡で観測(46歳)、天の川が星の集団であること、月にはクレーターがあること、木星に複数の月があることに気づいた(3年後には太陽の黒点も発見する)。木星の周囲を月が回っているの� �見たガリレオは、"すべての星は地球の周りを回っている"とする天動説に疑問を抱き、コペルニクスの地動説を支持するようになった。
※ピサの斜塔の落下実験の逸話は弟子ヴィヴィアーニの創作で、実際は空気抵抗の影響を減らすために、斜面で鉛玉を転がしたらしい。

1616年、コペルニクスの本が発禁になり、ガリレオは「コペルニクスの説について口頭でも文書でも議論してはならない。地球が動いているという概念に固執すべきでない」という教会命令を受け、"地動説は真理ではない"と宣誓書を書かされた(52歳。有名な「それでも地球は回っている」はこのとき呟いたもの)。それから17年後、なおも地動説に固執するガリレオは異端審問所から「異端の重大な疑いあり」としてローマへの出頭命令をうけた(69歳)。 判決は終身禁固刑!これは後に監視付きの軟禁に減刑されたものの、死ぬまで謹慎は続いた。彼の著作は燃やされ、判決文が全大学で公示された。
晩年、ガリレオは失明し77歳で没した(死後100年間墓を作ることも許されなかった)。死の4年前、彼は軟禁中の家からオランダの出版業者に、コペルニクスを支持する著作(新科学対話)の原稿を密輸した。彼の有罪判決がヴァチカンの誤りとカトリック教会から正式に認められ破門が解かれたのは、死後350年を経た1992年(1983年?)、ローマ法皇ヨハネ・パウロ2世によってであった(ついこの前じゃん!)。

世間で"常識"とされるものに異論を唱えるのは、狂人扱いされるリスクに対する覚悟がいる。中世の場合ヘタをすれば異端者として火刑に処される可能性もあった。にもか� ��わらず自分の信念を曲げなかったガリレオの勇気を、真実を命懸けで語った生き様を、学校の授業でもっともっと大きく伝えるべきッ!

「ガリレオは、世界がどう動いているか人間は理解しようと試みることが出来るし、さらに現実の世界を観測することによってそれが達成可能だと論じた、最初の一人だった」(スティーブン・W・ホーキング)


★ニュートン/Sir Isaac Newton 1642.12.25-1727.3.20 (イギリス、ロンドン 84歳)2005

Westminster Abbey, London, England
「天体の運動は計算できるが、人の気持ちはとても計算できない」(ニュートン)

ガリレオが亡くなった1642年、ニュートンは英国の片田舎で生まれた。父親は彼が生まれるのを見ずに肺炎で落命し、母親は彼を祖母に預けて再婚した。祖母と2人きりの寂しい生活は、彼の内向的で孤独な、そして思慮深い性格を形成していく。成長したニュートンはケンブリッジ大学に進んだ。23歳の時にペストの大流行で学校が閉鎖され故郷の田舎へ戻る。この里帰りは23〜25歳のわずか1年半だが、後世の人々は後に『ニュートン、驚異の1年半』と呼ぶことになる。彼の3大発見(万有引力、光の分析、微分積分法)がこの時期に集中したのだ。

一般にリンゴが木から落ちるのを見て彼が引力に気づいたと言われているが、正確にはちょっと違う。このエピソードには後半があって、「リンゴは落ちてくるのに、なんで月はいつまでた� ��ても落ちてこないんだろう?」と続く。つまり、リンゴではなく月に疑問を持ったんだ。そして彼はこう結論を得た--「月が軌道を外れて宇宙の彼方に飛んで行かないのは、地球へ落下し続けているからだ。飛んで行こうとする力を落下が抑えてるんだ。月は浮かんでるようにみえるけど、常に落ちてるんだッ!」と。彼はこの世に存在するものすべてに引力があることを発見した。※リンゴにも引力がある。リンゴが地球に落ちる時、観測不能なほど僅かだけど地球の方もリンゴに向かって落ちている!
地球と月の間に働く力を計算する過程で微分積分の計算方法を発見した後、彼は光の研究に取り掛かる。ニュートンは光がプリズムを通すと七色に分かれることに注目し、一度分けた七色の光を混ぜ合わせると白い光に戻るという� ��とに気づいた。そして、白色光がすべての色の混合であることを実験で確認した。

ところが。こうした重要研究や発見について、当時のニュートンは何の発表もしなかった。彼は学会で行なわれる学者同士の批判合戦に閉口していたし、何より創造することが最大の喜びであり発表は二の次だったのだ。彼は新しい興味の対象を見つけては研究に没頭するという生活を続けていた。29歳の時に反射望遠鏡を完成し王室へ献上すると、にわかに世間に注目され、彼は「望遠鏡より光の研究の方がすごいのに…」と光の特徴について論文をまとめた。すぐさま無理解な物理学者たちから悪意に満ちた反対論をぶつけられ、彼の発表恐怖症はいっきに悪化し、それ以後12年間も研究室に引きこもっってしまった。
親しい友人たちは、ニュ� ��トンがとっくに発見している成果を、他の科学者(ライプニッツなど)が学会に「新発見」として報告するたびに、悔しい思いに駆られていた。中でもエドモンド・ハレー(彗星の研究で有名)は、ニュートンの万有引力に関する研究ノートを見て腰を抜かし、「一日でも早く発表するように」と熱烈に説得した。ニュートンはハレーの熱意に感激して、物体の運動や引力の原則をまとめた自身の研究の集大成『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』全3巻の執筆に入った。ハレーは『プリンキピア』の出版の為に、学会でニュートン擁護の論陣を張り、出版費用の不足分を負担するなど大奔走した。
ときにニュートン44歳、科学史上不朽の名著『プリンキピア』はこうして日の目を見た。人類はニュートンのおかげで自然界の現象 を初めて秩序立てて理解することが出来るようになった。

この後、強度の鬱病にかかったこともあり、創作活動は後年に『光学』を出版するのみにとどまった。晩年は造幣局長官、王立協会(世界で最も権威のある学術協会のひとつ)の会長などを歴任し、63歳でナイトの称号(科学者としては初めて)を受けている。
彼の墓には次のような銘文が彫られている--『神は言われた"ニュートン出でよ"。すると全てが明るくなった』


なぜジョセフ·プリーストリーはノーベル賞を取得する必要があります?

「私は浜辺で遊ぶ少年のようなものだ。時々、滑らかな小石や可愛い貝殻を見つけて遊んでいる。その一方で、真実の偉大な海はすべて未知のままに私の前に広がっている」(ニュートン)


★マリヤ・スクウォドフスカ=キュリー/Maria SkBodowska-Curie 1867.11.7-1934.7.4 (パリ、パンテオン 66歳)
★ピエール・キュリー/Pierre Curie 1859.5.15-1906.4.19 (パリ、パンテオン 46歳)2002

The Pantheon, Paris, France

巨万の富より学問の理想を追求した!


上段がマリー、下段が夫ピエール。1995年、国葬者が眠るパンテオンに移された。
女性初のノーベル賞受賞者、マリー・キュリーは1867年ワルシャワに生まれた(熊楠と同じ年!)。マリーは苦学してパリ・ソルボンヌ大で物理を学んでいた頃、あるとき教室で気を失う。意識が戻った彼女は「実は何日もサクランボと少しの大根しか食べてなかったんです」と医者に応えたという。とても貧しかったのと、勉強の為に食事の時間を割くことを惜しんだ結果、倒れてしまったのだ。在学中に出会った夫のピエールは8歳年上。夫妻はウランの900倍というケタ違いに強い放射能を持つ物質・ラジウムの存在を信じていた。それを証明する為に、4年の歳月をかけて8トンものウラン鉱石を煮沸し、そこから0.1グラムのラジウムを"執念"で精製した!そして1898年「ポロニウムとラジウムを発見した」と世界に公表す る(マリーは"放射能"という言葉の名付け親)。
2人が偉大なのは、研究費の重圧に苦しんでいたにもかかわらず、ラジウム精製法の特許を申請しなかったことだ。特許を取れば莫大なお金が入ってくるのに、"誰もが自由に研究出来るように"と申請を出さなかった!おかげで急速に放射線の研究が進み、多くのガン患者がその恩恵に預かった(科学者の鑑だね)。1903年、夫妻はノーベル物理学賞を受賞する(マリー36歳)。2人はなおも研究を続けたが、3年後にピエールが暴走した馬車にひき殺されてしまう。そこからマリーは孤軍奮闘し、今度は1911年に化学賞を受賞した。2部門で受賞したのは彼女が史上初だ。亡くなったのは77歳。放射能汚染による白血病が原因だった(放射能の危険性はまだ知られてなかった)。
※のち� �キュリーの長女もノーベル賞(化学賞)を受賞している。

★ファーブル/Jean Henri Fabre 1823.12.23-1915.10.11 (フランス、セリニャン 91歳)2004
Serigan, France

「疑念が証拠の重みに屈服するまで、何回でも自分で見て触って確かめてみたい」(ファーブル)
「ファーブルは哲学者のように思索し、芸術家のように観察し、詩人のように感じ表現する偉大な科学者である」(劇作家ロスタン)


ファーブルが眠るセリニャンは南仏の田舎。バスは一日に数便しかないうえ、アヴィニヨンから直行便がないので、TGVで来た者は必然的に
タクシーを使うことになる。セリニャンまでは高速道路に乗っても片道40分近くかかり、タクシー代が馬鹿にならない(涙)。時間に余裕のある
人は、在来線の鉄道に乗り換えて次のオランジュ駅まで行き、そこでタクシーを拾おう。それなら15分くらいで着くから、もっと安く行けるハズだ。


墓石職人の2 人にファーブルのお墓を尋ねた。怖そうなオジサンだったのでチョット緊張した。(実際は優しかった
んだけどね)「あのう…ファーブルの墓を探しているのですが…」「おう!簡単だ、兄ちゃんこっちについて来なッ!」

ファーブルは中学校教師を勤めながら一人で昆虫の生態を研究し、退職後は本格的に論文の執筆に着手、56歳の時に労作『昆虫記』第一巻を
完成させた。その後、30年の歳月を費やし、全10巻を世に送った。著作は自然愛やヒューマニズムに裏付けられているが、生物学界では独学を
理由に軽んじられ、ファーブルは「人間のこの巨大な渦(うず)の中にいる時くらい、深く孤独地獄を味わったことはない」という切実な言葉を残して
いる。(そして僕はファーブルのこういう弱さ、人間っ� �いところが大好きだ。だから昔からどうしてもお墓には足を運びたかった)
※ちなみに彼の『昆虫記』を日本で最初に翻訳したのはアナーキストの大杉栄。これは意外。


「ムッシュ!あそこにあります!」
この巡礼のオチ…タクシー代(約1万2千円)が足りず、銀行のキャッシュ・マシーンをドライバーと2人で探した(汗)。

★ダーウィン/Charles Darwin 1809.2.12-1882.4.19 (ロンドン、ウェストミンスター 73歳)2002
Westminster Abbey, London, England


1809年英国生まれ。博物学者ダーウィンの学説は、生命科学、地球科学、さらに現代思想に絶大な影響をもたらし「19世紀はダーウィンの時代である」という言葉が残っているほどだ。
子供時代に学校で「注意力散漫」とレッテルを貼られた彼は、青年になっても学校の授業が退屈で大学を中退している。生物学に興味を持っていた彼は22歳の時、英国の海図測量船ビーグル号に乗船し、サラリーなしの博物学者として5年間の探検航海に旅立った。当時多くの地質学者は、地球上では神による動植物の創造が続いており、ノアが箱舟に載せた生物以外はすべて絶滅し、化石になったと信じていた。しかし彼は世界各地で化石や地質、気象などのデータを収集していく中で、南米大陸を南下するにつれて生物が微妙に変化していく事や、ガ� ��パゴス諸島のそれぞれの島に、互いに似ていながら体の構造や採食の習性が違った鳥(フィンチ)が生息していたことから、進化が段階的に進むことを確信した。
以後20年以上も綿密に研究を重ね、49歳の年に、彼と同じ自然選択の理論に到達していた年下の博物学者ウォーレスと共に論文を発表、翌1859年、世界を震撼させた500ページの大作「種の起原」(正式には"自然選択、すなわち生存競争で恵まれた品種の保存によってなりたつ種の起源")を出版した(なんと当日に完売)!
すぐさま悪意に満ちた反響がダーウィンを襲った。新聞から他の研究者まで悪評ばかりだったが、中でも一番激しく非難を繰り広げたのは宗教界だった。人類は神が創造したと説いているのに、よりにもよってサルから進化したとは何事か、と激� �したのである(ダーウィンはサルから進化したと主張した訳ではなく、ヒトと霊長類は共通の祖先から枝分かれして進化したと書いたのだが人々に誤解された)。彼はあまりに周囲の攻撃が凄まじいので「私の理論の真価が認められるのは、種の進化とあまり変わらないくらい時間がかかりそうだ」と嘆いた。
はたして20年後に彼が73歳で亡くなった時、王侯貴族が眠るウェストミンスター寺院に葬ろうという声が国民全体から起こり、彼はニュートンの近くに埋葬されたのであった。

※ダーウィンのお爺ちゃんはティーカップで有名なウェッジウッド!


★南方 熊楠(みなかたくまぐす)/Kumagusu Minakata 1867.4.15-1941.12.29 (和歌山県、田辺市、高山寺 74歳)2001&2010


「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」(柳田国男)



博物学者、民俗学者、細菌学者、天文学者、人類学者、考古学者、生物学者、その他。別名「歩く百科事典」。坂本龍馬や新選組が活躍し、翌年からは明治という1867年、熊楠は和歌山市の金物商の家に生まれた。6人兄妹の次男。子どもの頃から好奇心が旺盛で、植物採集に熱中するあまり山中で数日行方不明になり、人々は天狗にさらわれたと噂し、「天狗ちゃん」と彼を呼んだ。7歳の頃から国語辞典や図鑑の解説を書き写し始めた。1879年(12歳)、中学に入学。知識欲はさらに増大し、町内の蔵書家を訪ねては百科事典『和漢三才図会』(全105冊)を見せてもらった。まだコピー機などない時代であり、熊楠は内容を記憶して家で筆写し、5年がかりで105冊を図入りで写本した(ド根性!彼は植物図鑑25巻や名所図絵等も同様に写してい る)。

1884年(17歳)、熊楠は大学予備門(現・東大)に入学。同期に夏目漱石、正岡子規、クラスには幸田露伴がいた(すごい時代)。ところが地方から出てきた熊楠は、上野の国立博物館や動物園、植物園で「百科事典で見たものがいっぱい!」と鼻血が出るほど興奮し、大学そっちのけで通いつめた。さらに、米国で植物学者がキノコ・粘菌などの「菌類」を6千点採集したというニュースを聞くと、がぜん対抗意識を燃やし「自分が記録を塗り替えてやる」。そんな有様なので当然学業の成績は急降下。翌年に落第したので"ちょうど良い機会"と自主退学し、田舎の親を仰天させる。

●アメリカへ

1886年(19歳)、実家に戻った熊楠は「学問はアメリカの方が先を行ってます!」と父に渡航の意義を力説。だが、明治 維新からまだ間もない時代、親にしてみれば国外に行くのは永久の別れも同然。"無茶を言うな"と大反対された。しかし、熊楠は8ヶ月にわたって熱弁をふるい続け、ついに親も根負けした「行って来い!」。12月22日、横浜から米国に向けて出航!
年が明けて1887年、船は半月後にサンフランシスコへ無事入港した。19世紀のアメリカで、20歳の若者が一人暮らしを始めたのだ。恐るべき行動力。

熊楠は大陸を東へ進んでシカゴに入り、続いてミシガン州に至った。同地の州立農学校を受験しこれに合格。しかし翌年、学生5人でウイスキーを飲み、泥酔した熊楠が寄宿舎の廊下で爆睡しているところを校長に発見され放校処分(21歳)。以降独学し、頻繁に山野へ出かけ、植物採集などフィールドワークに汗を流した。この過程でさ らに粘菌の魅力にとりつかれていく。1891年春(24歳)、知人の研究者から「フロリダは新種の植物の宝庫」という情報を聞くと居ても立ってもいられず、顕微鏡など研究道具と護身用のピストルを携帯して鉄道でフロリダへ向かう。現地では八百屋を営む親切な中国人の世話になりつつ、ひと夏の間採集を続け、秋に南端のキーウエストからキューバに渡った。「キューバには日本人はいないだろう」と思っていたら、首都ハバナで公演中のサーカス団に日本人がいてビックリ。両者は意気投合し、熊楠も一座に加わった。象使いの補助をしながらハイチ、ベネスエラ、ジャマイカなど3ヶ月ほど中南米の巡業を共にした(この間も各地で植物採集は続けている)。

   彼の菌類LOVEが溢れている

●イギリスへ

1892年秋( 25歳)、米国滞在の6年間で標本データが充実したので、植物学会での研究発表が盛んな英国に渡ることを決意する(大英博物館にも行きたかった)。9月21日、大西洋を横断してリバプールからロンドンへ到着。ロンドンで弟の手紙を受け取った熊楠は、優しかった父が夏に病没していたことを知り絶句する。
1893年(26歳)、下宿で標本整理を続ける一方、天文学会の懸賞論文に出した初論文「極東の星座」がいきなり1位入選し、英を代表する科学雑誌『ネイチャー』に掲載された。「ミナカタ」の名は一躍知られるようになり、その後も「ミツバチとジガバチに関する東洋の見解」「拇印考」など51回も論文が紹介される。
熊楠は連日のように大英博物館へ足を運び、気に入った本から書き写した。この頃の熊楠は「植物も興味深い が人類そのものも面白い」と、人類学、民俗学、宗教学に強く関心を寄せている。筆写ノート『ロンドン抜書(ぬきがき)』は52冊に及び、紙代を節約する為に小さな字でぎっしり埋め尽くした。
※後年の熊楠は18ヶ国語を操ったと言われ、このぶ厚い『ロンドン抜書』でも、英・スペイン・ギリシャ・ラテン・仏・独・伊・ポルトガルなど8種の言語で書かれている。

大英博物館の図書部長は熊楠の驚異的な博識に圧倒され、同館の東洋関係文物の整理、目録の作成を依頼した。彼は大英博物館東洋調査部員となった。同館では展示品の仏像名を考証するなど様々な形で東洋美術に関った。冗談好きの熊楠は、袈裟を着た僧侶姿で働くなど(この服は訪英中の高野山管長から貰った)、茶目っ気のあるところも見せた。当時の彼は� �命中の"中国革命の父"孫文とも親交を結んでいる。

しかし順調なことばかりではない。欧州では東洋人への蔑視がひどく、気の荒い熊楠は屈辱を受けると腕力で返事をした為に、何度も騒動を起こしていた。人類学に造詣が深い彼としては、馬鹿げた人種差別を人一倍許せなかった。30歳の時には館内で英国人を殴りつけ、一ヶ月間入館禁止になり、翌年にも声高の女性を注意した際に騒ぎになり、とうとう博物館を追放される。その後は、翻訳の仕事をしたり、浮世絵の販売をするなどして生活費を稼いだが、ついに困窮極まり8年間過ごした英国と別れ、日本への帰国を決意した。
1900年9月1日午後4時、テムズ川から船は出航した。日記には短く「夜、しばらく甲板に出て歩く」。熊楠、ときに33歳であった(この翌月、熊楠と 入替わるように日本の国費留学生第一号、即ち夏目漱石がロンドンに到着している)。

●14年ぶりの帰国

同年10月15日、神戸港に到着。14年ぶりの日本。出迎えた弟はボロを着ている兄の姿に仰天し、何の学位もとらずに書物と標本だけ持ち帰ったことを知り唖然。和歌山への帰郷後は酒屋を営む弟宅(那智勝浦)に一ヶ月ほど身を寄せ、「長く日本酒が呑みたかった」と毎日浴びるように大酒した。一呼吸つくと、日本の隠花植物(菌・苔・藻・シダ類等)の目録を完成する為に、付近を巡って標本採集に精を出した。
1901年(34歳)、訪日中の孫文がはるばる和歌山の家まで遊びに来てくれ、2人は思い出話で盛り上がった。同年、那智で苔の採集中に小畔(こあぜ)四郎という青年に出会う。彼は熊楠の半生を聞いて腰� �抜かし、すぐに門弟となった。彼は船会社に勤めており、各国の寄港地で採集した標本を熊楠に送ってくれた。
これら熊野地方での植物調査は足掛け3年に及び、植物や昆虫の彩色図鑑を作った。また世界の古典文学を読みまくり、鴨長明の『方丈記』をロンドン大総長のディキンズと協力して英文訳に取り組み、完成させた。孫文やロンドン大総長との交流のように、紀州にいてもインターナショナルな熊楠だった。

1904年(37歳)、和歌山・田辺市に家を借り、居を定める。お寺(和歌山市円珠院)に寄宿した時期もあったが、彼がキノコや藻・苔類などを大量に部屋に置き、身だしなみも無頓着で不潔だったので寺が悲鳴を上げ、出て行くことになった。熊楠は田辺を「物価は安く、町は静かで、風光明媚」と絶賛し、亡くな� �までこの町で過ごした。
1905年、整理した粘菌標本を大英博物館に寄贈。これが英の植物学雑誌に発表され、「ミナカタ」は世界的な粘菌学者として認知された。
1906年(39歳)、神社宮司の娘・松枝と結婚。翌年、長男熊弥(くまや)誕生。赤ん坊を見た熊楠は「児を見て明け方まで眠れず」と日記に歓びを刻んだ。生活が落ち着くと採集活動を再開した。田辺周辺で山に分け入り、道に迷って野宿したり、珍しい植物を発見して歓声をあげながらブリキ缶を担いで山を駆け下り、田植えをしていた女性達が天狗が出たと思って逃げ去った等、様々なエピソードが伝えられている。

●環境保護に立つ!


何年マン·オン·ザ·ムーン第一土地を行いました

1909年(42歳)、熊楠は『神社合祀(ごうし)反対運動』を開始する。明治政府は国家神道の権威を高める為に、各集落にある神社を1村1社にまとめ、日本書紀など古文書に記載された神だけを残す「神社合祀令」を出した。この結果、和歌山では3700あった神社が強制的に600に合祀(統合)され、三重では5547が942まで激減した。しかもこれにはビジネスの側面もあった。神社の森は樹齢千年という巨木もあり、これが高値で売れたのだ。廃却された境内の森は容赦なく伐採され、ことごとく金に換えられた。

熊楠は激怒した!樹齢を重ねた古木の森にはまだ未解明の苔・粘菌が多く棲み、伐採されると絶滅する恐れがあった。「植物の全滅� �いうのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」。熊楠は"エコロジー(生態学)"という言葉を日本で初めて使い、生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で全生命が結ばれていると訴え、生態系を守るという立場から、政府のやり方を糾弾した。
※当時は誰も「生態系」という概念すら持っておらず、熊楠が「日本最初のエコロジスト」と呼ばれる由縁だ。

熊楠はまた、民俗学、宗教学を通して人間と自然の関わりを探究しており、人々の生活に密着した神社の森は、子どもの頃に遊んだり、祭りの思い出があったり、ただの木々ではない、鎮守(ちんじゅ)の森の破壊は、心の破壊だと憤慨した。熊楠は新聞各紙 に何度も反対意見を出し、合祀派の役人を舌鋒鋭く攻撃した。彼は国内の環境保護活動の祖となった。

   熊楠が守ろうとした紀州・熊野古道の木々(この杉は樹齢800年)

1910年(43歳)、熊楠は合祀派の県役人が田辺高校の教育講習会に出席することを知り、直談判すべく会場を訪れる。しかし面会を拒否され、植物標本の入った布袋を会場へ投げ込んだ。彼は「家宅侵入罪」で逮捕され、18日間拘留された。でも、熊楠はどこでも熊楠。拘置所で珍しい粘菌を見つけた彼は、釈放を告げられると「もう少し置いてほしい」と言い出ようとしなかったという。

1911年、熊楠の反対運動に共鳴した内閣法制局参事官・柳田国男(民俗学者)は、熊楠の抗議書を印刷して識者に配布し、活動を側面から支えた(柳田は熊楠の家に� ��を聞きに行った)。同年、長女誕生。この頃から自然科学の論文に加え、民俗学や文化に関するものも大量に書き始める。
1912年(45歳)、熊楠の猛烈な抗議運動がやがて世論を動かし始め、和歌山出身の議員が国会で合祀反対を訴えた。
1915年(48歳)、6年前にアメリカ農務省から省内に入って欲しいと要望書が届いていたが、ちょうど合祀反対運動の開始時で返事をしなかった。すると、この年にわざわざアメリカから農務省の役人が田辺までやって来て、再度の渡航要請をした。しかし彼はまだ反対運動が続いていること、家族のことを考えて辞退した。この米国農務省の一件は、日本社会に熊楠がどれほどスゴい男・世界的博物学者なのか知らしめた(熊楠は海外では有名だったけど日本では無名に近く、近所の人も変わり者 の親父と思っていた、笑)。
1917年(50歳)、自宅の柿の木から新種の粘菌を発見し、英の学会で「ミナカテラ・ロンギフェラ」(ミナカタの長い糸)と学名がついた(和名・ミナカタホコリ)。

1920年、10年間の抵抗運動がついに実を結び、国会で「神社合祀無益」の決議が採択された。これ以降、熊楠は貴重な自然を天然記念物に指定することで確実に保護しようと努めるようになる。※世界遺産に指定された熊野古道には、熊楠がいなければ伐採され、僕らが姿を見ることが出来なかった巨木(樹齢800年の杉等)がたくさんある。

●最後まで全力疾走

1925年(58歳)、熊楠は数年前から「南方植物研究所」の構想を練り、建設資金集めに奔走していた。この年に寄付を求める為に書いた「履歴書」が、超密度の濃い� ��生を象徴するかのように7m70cmという長大なもので、巻紙に細字5万5千字で書かれており、世界最長の履歴書と言われている。翌年には資金作りの為に『南方閑話』『南方随筆』『続南方随筆』という3冊の著書が刊行された。海外への論文は何度も書いてきたが、国内に向けた一般著書はこれが初めて。59歳での初出版となり、人々は随筆に書かれた熊楠の博識に感嘆した。

1929年(62歳)、昭和天皇が田辺湾沖合いの神島(かしま)に訪問した際、熊楠は粘菌や海中生物についての御前講義を行ない、最後に粘菌標本を天皇に献上した。戦前の天皇は神であったから、献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、なんと熊楠はキャラメルの空箱に入れて献上した。「アッ」現場にいた者は全員が固まったが、� �の場はそのまま無事に収まった。側近は「かねてから熊楠は奇人・変人と聞いていたので覚悟はしていた」とのこと。後年、熊楠が他界した時、昭和天皇は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。
※1962年、昭和天皇は33年ぶりに和歌山を訪れ、神島を見てこう詠んだ「雨にけふる神島を見て 紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ」。

    神島(天然記念物)

1933年(66歳)、白浜の御船山神社境内に天皇の行幸を記念した博物館設立が決まると、「神社に博物館を置くのは文化の破壊」と民俗学者として反対運動を展開し中止させた。翌年、神島の自然を保護するため、島の詳細な植物分布図を作り、史跡名勝天然記念物の申請書を提出。2年後に政府から認定された。
1937年(70歳)、日中戦� �が勃発。戦局が拡大するなか、高齢になった熊楠は体調を崩し病床に就く。それでも人生の集大成として、「日本産菌類の彩色生態図譜」(日本菌譜)の完成に向け、これまで採集した標本と、連日弟子達が持ち込んでくる菌類を整理し、世界に誇る作品にするべく、写生し、注釈を書き、死力を尽くして奮闘し、4500種・1万5千枚の彩色(カラー)図譜を完成させた。熊楠が生涯に発見した粘菌は40種以上に及んだ。

1941年、病状悪化から死期を悟った熊楠は、家族への形見として『今昔物語集』に署名する。12月8日、米英に知人の多い熊楠は、真珠湾攻撃のニュースに絶句。その18日後の29日朝6時30分、「天井に紫の花が咲いている」という言葉を最期に激動の人生を終えた。享年74歳。翌日に熊楠の希望で脳解剖され、阪大医学部に� �髄が保存された。田辺市郊外、神島を望む真言宗高山寺に埋葬される。戒名は智荘厳院鑁覚顕真居士。1965年(没後24年)、和歌山県白浜町に南方熊楠記念館が開館した。

「南方熊楠は日本人の可能性の極限だ」(柳田国男)
江戸時代に生まれ昭和に死んだ熊楠。なんという破天荒な人生、天衣無縫さ。あまりにカッコよすぎる。記憶力も驚異的だけど、熊楠は気が遠くなるほど膨大な量の書籍を写本し、自分の足で世界各地の山野に分け入り標本を集めた『努力の人』だ。熊楠の口癖は「読むことは写すこと。読むだけでは忘れても、写せば忘れぬ」だったという。熊楠は何かに興味を覚えると、それに関連する全ての学問を知らなければ気が済まないという、底なしの好奇心と爆発的な行動エネルギーの持ち主だった。
『ネ� ��チャー』に論文が載るのは研究者の夢。科学者なら一生に一度は掲載されたい。東大、ハーバード、ケンブリッジ、どこの大学教授も、研究チームも"いつかはネイチャーに"というのが悲願。それを熊楠は51回!しかも最初に掲載されたのが天文学に関するもので、彼の十八番の粘菌関係じゃないので2度ビックリ。
学歴もなく、どの研究所にも属さず、特定の師もおらず、ただの民間の一研究者。何もかもが独学で肩書きナシ。国家の支援も全く受けずに、これほど偉大な業績を残した人間が実在した。
「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」(南方熊楠)

※日本で孫文と再会した時に、別れ際に熊楠へ贈った孫文愛用のパナマ帽や、熊楠が大英博物館で作成した『ロンドン抜 書き』、ルーペ、メガネ、採集用具などは、白浜の南方熊楠記念館で公開されている。
※粘菌や昆虫(害虫も含めて)など微小なものを徹底して観察した熊楠は言う--「世界に不要のものなし」


これが噂の標本箱、
森永ミルクキャラメル
熊楠の死の約20年後、昭和天皇が和歌山で
詠んだ歌「雨にけふる神島を見て 紀伊の国
の生みし南方熊楠を思ふ」(熊楠の墓で撮影)

★メンデル/Gregor Johann Mendel 1822.7.20-1884.1.6 (チェコ、ブルノ 61歳)2005
Central Cemetery, Brno, Czech Republic





「人間は自身の内に鼠とたわむれる猫を、仲間を真似る猿を、骨を投げてくれる者には誰かれなしに尾を振る犬を、罠を張って獲物を待ち伏せする蜘蛛を、容赦なく
鳥の首をねじ折るイタチを、あらゆる種族の動物を現している」(メンデル)。修道士なのにこういうシニカルな視点を持っているメンデル。聖人君子より人間味があって僕は大好き。


★ファラデー/Michael Faraday 1791.9.22-1867.8.25 (ロンドン、ウェストミンスター 75歳)2002

Westminster Abbey, London, England
※正式な墓はロンドン、HighgateのHighgate Cemetery (West)。写真はウエストミンスターの方


1791年英国生まれ。家が貧しくて小学校しか行けず、正規の教育はほとんど受けていない。13歳にはもう製本屋で働いていた。ファラデーは、製本する書物を拾い読んでいるうちに科学の面白さにのめり込んでいく。仕事が終わって家に帰り、自分で簡単な化学実験をして興奮する日々。そんなある日、店に出入りしていた王立協会のメンバーが、彼の勉強ぶりに感心して、なんと高名な化学者デービー(ナトリウム、カリウムの発見者)の講義に参加させてくれた。これでファラデーは完全に知識欲に火がつき、頭がヒートした!どうしても科学の仕事がやりたくてたまらず、デービーに"助手として雇って欲しい"と熱烈な手紙を書いた。デービーは手紙に同封されていた講演の詳細な記録に胸を打たれ、彼の願いを受け入れる(ときに ファラデー21歳)。デービーは研究室で寝起きするこの熱心な助手をとても可愛がり、各国の講演に連れ歩いた。各地で最先端の科学事情に触れ、ファラデーの知識はどんどん深まっていく。

30歳の時に結婚。給料が安かったので、研究所の屋根裏部屋を2人の新居とした。ファラデーはデービーの指導の下で塩素の液化に成功(32歳)、以後の20年間で、炭酸ガス、アンモニア、塩化水素など、ほとんどの気体の液化を実現した(34歳の時にはベンゼンを発見)。38歳、師のデービー卿が病の為に51歳で亡くなる。師の後を継いで王立研究所の所長になった彼は、やがて化学から電気に興味の対象が変わっていく。そして40歳、磁石を使うことで電池以外にも電流を得ることが出来ること(誘導電流)を発見した!42歳、電気分解に関する"フ ァラデーの法則"を発表。その後も晩年まで電気と磁気の様々な運動法則を発見し続けた。

こうした業績でファラデーは19世紀最大の実験家という名声を得たが、地位や名誉には全く関心がなく、あらゆる賞を辞退し、学位の申し出を拒否し、誰もが羨む王室からのナイト(爵位)の称号さえも断った。67歳になっても相変わらず王立研究所の質素な屋根裏部屋に暮らしていたので(既に屋根裏生活46年目)、見るに見かねたビクトリア女王が自分の邸宅のひとつを提供したという。
彼が発見した電磁誘導の現象は、発電機、発動機、電話の原理になり、電磁波の理論は電波の基礎になった。まさに近代文明の恩人だ。

う〜ん、ファラデー、スゴ過ぎッ!!


★メンデレーエフ/Dmitry Ivanovich Mendeleev 1834.1.27-1907.1.20 (ロシア、ペテルブルグ 72歳)2005
Volkovskoye Memorial Cemetery, Saint Petersburg, Russian Federation



元素の周期表の発見者。31歳でペテルブルグ大の化学教授になり、1869年に35歳で周期表の論文を発表する。彼が周期表を作成した時は、まだ75種類の元素しか知られておらず、周期表には17個の空所があった。メンデレーエフは未発見の元素の性質を予測し、後に予言通りに発見されたことで、世界的にその功績が認められた。
一方、帝政ロシアにあって自由主義的な考え方を持っていた為に政府権力と衝突し、1890年(56歳)で大学を辞職する。1906年のノーベル化学賞にノミネートされたが、一票差でフッ素の研究者アンリ・モアッサンに敗れ翌年に肺炎で他界した。

★杉田 玄白/Genpaku Sugita 1733.9.13-1817.6.1(東京都、港区、栄閑院 83歳)2000 医学者


1733年江戸生まれ。小塚原の刑場で、1771年、漢方医だった玄白(当時38歳)はある目的があって死刑になった罪人の解剖に立ち会った。やっとこさで手に入れたオランダの医学書『ターヘル・アナトミア』(この本は非常に高額で、所属藩の家老に涙を浮かべて懇願し、購入してもらった)に掲載された解剖図の精度を確かめたかったのだ。彼は図版の見事な正確さに驚愕し、さっそく翌日から友人の医者2人と執念の全文翻訳に取り掛かった。
ところが、外交上で使うオランダ語は多少分かっても、医学の専門用語となるとさっぱり分からない。翻訳作業は遅々として進まず、ひたすら難航を極めた。わずか一行の文章を丸1日かかっても訳せない日もあったのだッ!しかし、3人が七転八倒しているという噂を聞き、志を同じくする協力 者が次第に現われ始めた。一年ほど経つと、ようやく1日に10行(それでも10行!)ほど訳せるようになり、昼間に皆で訳した文章を、その日の夜に玄白が清書するという"猛烈なスピード"で作業を続けた。

この過程で、どうしても邦訳できない単語は玄白らが新語を作った。神経、盲腸、解体などという言葉は全て彼らの造語!鎖国政策をとっている幕府に無断で翻訳作業をしていたので(何と彼らは翻訳許可も取らず、発行できるかどうか分からないものを作っていた)、2年半が経ったころ『解体新書』の予告編として、『解体約図』という図面中心のミニ冊子を、ドキドキしながらソ〜ッと発行してみた。もちろん、幕府の反応を打診する為である。将軍は智将吉宗だった為、お咎めも弾圧もなかった!
抱き合って喜んだ彼ら� �さらに加速度的に翻訳を進めた。完成すれば多くの人々の命が救われることは間違いない。そして翻訳開始から3年後(1774年)、11回に及ぶ慎重な校正を終えて、ついに『解体新書』は仕上がった。玄白、ときに41歳。発売前に、最後の最後でしくじらぬよう、将軍家、朝廷、幕府老中へ真っ先に献上することでゴマをすっておいた。

出版の反響は凄まじいものがあった。当時の医者が使用していたいい加減な五臓六腑図とは、内容があまりに異っていたのだ。この後、西洋医学は爆発的に広がっていく。発売後も玄白は何度も改訂を続け、85歳という長寿で大往生した。
※墓は霞ヶ関の官公庁の谷間にヒッソリとある。
※「解体新書」の挿絵を描いたのは秋田藩の若き平侍・小田野直武。秋田藩主佐竹義教は絵画論を刊行する� �ど絵が好きで、藩では洋画(秋田蘭画)がブームになっていた。銅山の調査で秋田を訪問した平賀源内は画才に長けた直武を知り、噂が玄白に伝わって江戸への呼び出し&挿絵描きとなったようだ。


色覚異常木箱平方

★ベンジャミン・フランクリン/Benjamin Franklin 1706.1.17-1790.4.17 (USA、フィラデルフィア 84歳)2000&09

Christ Church Burial Ground, Philadelphia, Philadelphia County, Pennsylvania, USA

1706年ボストン生まれ(17人兄弟の15番目!)。自分は彼の墓をこの科学者コーナーに入れたが、政治家・発明家・著述家・外交官・哲学者の横顔も持っており、どの業績を彼の肩書きにするか困ってしまった。少年時代のフランクリンは、家が貧しく10歳で学校へ行けなくなり、独学で文字を学んだ。12歳から印刷屋で働いていた彼は、22歳の時に独立してフィラデルフィアで印刷業を始める。彼が発刊した新聞『ペンシルベニア・ガゼット』は数年で米国最大の新聞になり、彼は若くして町の名士となった。そしてアメリカで最初の公共図書館を設立(25歳)、翌年に有名な「時は金なり」など人生訓を記した元祖ハウツー本を書き下ろす。30歳の時にペンシルベニア議会書記官に指名され、彼は消防隊を組織し、道路の舗装、街灯の増設を すすめた(この時期、燃焼効率抜群の前開きストーブを発明している)。35歳でアメリカ最初の雑誌『ゼネラル・マガジン』を発行。45歳の時にはペンシルベニア大学を設立している。

そして、その翌年!科学の研究にも関心を持っていたフランクリンは、稲妻が巨大な電気の火花であることを、凧を使った実験で初めて証明した(ついでに避雷針も発明)。それまで「天の怒り」「神の裁き」と怖れられていた稲妻の正体を「ただの電気」と実証したことで、フランクリンの名は世界に知られることとなった。
※プラスとマイナス、正と負という学術語はこのとき彼が作ったものだ。

フランクリンの後半生は政治家としてアメリカの独立に全身全霊を注いだものとなった。彼は1776年(70歳)、アメリカ独立宣言の起草にたずさわ り、ジェファソンと共にこの歴史的文書の署名者となった。同年7月4日、独立宣言を採択する。以後81年まで続く英国軍との激戦の中、「ヤバイ!このままでは負けるッ!」と彼は自らフランスへ援助の要請におもむく。科学上の名声や人柄の良さからフランスでも人望を集めた彼は、ルイ16世(アントワネットのダンナ)から援助と融資の約束を得た。同国では要人たちが彼の知識の深さ、誠実さ、大きな包容力に胸を打たれ、フランスへの永住を懸命に薦めたという(中には"力ずくでも米国に返さない"とする意見もあった)。
終戦後、81歳で憲法制定会議代表に選出され、84歳の時に奴隷制反対協会会長として奴隷制廃止と奴隷貿易禁止を求める請願を合衆国議会に提出する。その2カ月後、フィラデルフィアの自宅で息をひきとっ た。
議会は米国史上最も重要な政治家の一人であり著名な科学者である彼を「国葬」とする決議をし、他国フランスの国会までもが3日間の喪に服したのであった!(外国人の為に喪に服するとは、どれだけ彼が愛されていたのかよく分かるね)

※彼は自身が発明した物について「皆の役に立てればそれでいい」と特許を申請していない。
※俳優のシルベスター・スタローンが"尊敬する人物"としてフランクリンの名を挙げている。フィラデルフィアで学生時代を過ごした彼にとって、フランクリンはヒーローだった(映画「ロッキー」の中には、彼がフィラデルフィア美術館の前で両手を上げる有名なシーンがある)。


★野口 英世/Hideyo Noguchi 1876.11.9-1928.5.21 (NY、ブロンクス 51歳)2000&07&09

Woodlawn Cemetery, Bronx, Bronx County, New York, USA



1876年福島県の貧農に生まれる。幼名清作。3歳の時に囲炉裏に落ちて大やけどをし、左手の指がくっついてしまう。そのため学校ではひどくイジメられ彼は深く落ち込んだ。16歳の頃、その絶望を作文に吐き出したところ周囲の反響を呼び、先生や友人たちがお金を出し合って彼に手の手術を受けさせた。結果は大成功で、左手が人並みに動くようになった。この感動がきっかけとなって野口は医者の道を志し始める。21歳で医師の資格を得た彼は、初めて顕微鏡で病原菌を見て、この不思議な生き物に興味を持ち、翌年から北里伝染病研究所で細菌学の研究を始めた。
※この頃、名前を野口清作から英世に変えている。当時流行した坪内逍遥の小説に"野々口精作"なる医学生が登場し(むろん偶然)、その医学生は、最初は努力家で� ��秀だったのに、やがて堕落し破滅してしまう。この話を気にした野口は悩んだ末に改名したという。(まだ映画もテレビもなかった時代、小説の影響は凄まじかったんだなぁ)

24歳の時、来日した米国の細菌学者の通訳をしたことが縁で、野口はフィラデルフィアのペンシルベニア大学(フランクリン設立!)に留学することになった。米国では最初に蛇毒の研究を始め、ガラガラ蛇の抗毒血清の発明に成功した。デンマークへの留学を経て、NYのロックフェラー医学研究所の所員となる(28歳)。以降、梅毒、狂犬病、結核などの各種研究で功績を残し、世界的名声を得る。39歳のおり、16年ぶりに帰国する。その3年後に黄熱病の研究の為に南米エクアドルに渡ると、そこで黄熱病原菌を発見、予防ワクチンを作る。エクアドル政府は野 口の功績に感謝し、彼を軍医総監に任命した(現在でもエクアドルには彼の銅像が立ち、ヒデヨノグチ小学校やノグチ街という通りがある)。1928年、彼はアフリカのガーナで黄熱の研究中に感染し、残念ながら51歳で人生の幕を閉じた。

黄熱病の死者は二次感染の危険から、火葬、もしくは即座に埋葬されるのが通例だった(事実、野口の遺体を調べた医者も1週間後に黄熱病で死んでいる)。しかし、石油王ロックフェラーは「なんとしても米国に戻せ!」と指示を出した。金属製の棺に野口を納めると蓋を溶接して完全密閉し、ガーナから3週間をかけてNYに戻した(もちろん、これは極めて異例なことだ)。出迎えた友人たちに「棺のふたは開けられないし、棺に触れてもいけない」と研究所員は告げ、厳重な管理の下で棺は埋葬� �れた。葬儀では日の丸と星条旗が掲げられ、ロックフェラー2世が弔辞を読んだ。墓の用地は研究所が英世の為に購入した(これも前例のないこと!)。

高さ2mほどの墓石には次のように刻まれている--
『ロックフェラー医学研究所の英世は、科学への献身により、人類のために生き、人類のために死んだ』

●巡礼記
JR猪苗代駅からバスに乗り換えて、磐梯山を眺めながら野口英世記念館(生家)へ。すぐ近所の長照寺が野口家の菩提寺で、野口英世夫婦の墓に彼の遺髪が納められている。この遺髪はメリー夫人から日本の実家へ送られたものだ。夫人は溶接された鉄棺からどうやって髪を取り出したのか。実は、米国の床屋さんが"世界のノグチ"の髪として持っていたものなんだ!
※遺髪は生家にある「生誕地碑」� ��下と、野口家の墓地に埋められている。


★ノーベル/Alfred Nobel 1833.10.21-1896.12.10 (スウェーデン、ストックホルム 63歳)2005
Norra begravningsplatsen (Northern Cemetery), Stockholm, Stockholms Lan, Sweden







化学者・発明家。ストックホルム生まれ。1859年、26歳でニトログリセリンの製造工場を設立するも、5年後に工場爆発で弟や4人の社員が死亡する。この悲劇を受け、どうすればニトログリセリンを安全に取扱えるのか研究を開始。1867年(34歳)、液状ニトログリセリンを珪藻土(けいそうど)に染み込ませた固体爆薬・ダイナマイトの開発に成功。世界各地に火薬工場を設立して巨万の富を築くも、自らが発明した火薬が戦争で多くの人命を奪っていることに苦しむ。そして遺言で、後悔の念から遺産を基金としたノーベル財団を設立するよう訴えた(生涯独身で子供もいなかったので遺産のほぼ全額が基金となった)。現在、ノーベル賞には物理、化学、医学・生理学、文学、経済学、世界平和の6部門があり、毎年ノーベル� ��命日(12月10日)に授与式が行われている。

●ノーベルの遺言〜重要部分を抜粋 

「毎年、前年に人類のために最大の貢献をした人々に、私の遺産を運用した利子を賞の形で分配して欲しい。それは次の者に五等分される--物理学の領域で最も重要な発見・発明をした人物、化学の領域で最も重要な発見・改良をなした人物、生理学・医学の領域で最も重要な発見をした人物、文学の領域で理想主義を背景に最も優れた作品を創作した人物、国家間の友好や軍隊の廃止・縮小、平和会議の開催のために最も尽力した人物だ。スウェーデン王立科学協会が物理学賞と化学賞を、ストックホルムのカロリンスカ研究所が生理・医学賞を、ストックホルムの文学アカデミーが文学賞を授与し、平和賞の受賞者についてはノルウェー国会が選出した5人の委員会が選出するものとする。この賞の授与について国籍は一切考慮 されてはならず、スカンジナビア人だろうと外国人だろうと、最も優れた人物に賞を贈ることを私は強く望む。(中略)この遺言状だけが唯一有効なものであり、死後、他にどんな遺言が出て来ても全て無効とする」
※当初、この遺言状は国内で批判に晒された。候補者をスカンジナビア人だけでなく、外国人も対象としたことが、「愛国心がない」とされたのだ。この時代、他国の人間も視野に入れたグローバルな賞はまだ珍しく革新的だった。
※平和賞を選ぶのがなぜスウェーデン議会ではなくノルウェー議会なのか→両国は過去に何度も戦争をしたので、ノーベルはスウェーデン側が自国に都合の良い人間を平和賞に選ばないよう、かつて対立したノルウェー議会にあえて平和賞受賞者を選んで貰うことにしたんだ。



★湯川 秀樹/Hideki Yukawa 1907.1.23-1981.9.8 (京都府、東山区、知恩院 74歳)2000&10


 

すべての物質は原子で構成されている。そして原子は電子と原子核に分けられ、あたかも太陽の周りを惑星が公転するかのように、電子は原子核の周囲をまわっている。ただし、太陽系の惑星を支配している力は万有引力。原子の方は電気の力だ。原子核の陽子はプラスなので、マイナス電荷の電子がずっと外側を回っている。ここで問題が出てくる。原子核を構成しているのは陽子と中性子だ。中性子は無電荷。プラスでもマイナスでもない。じゃあ、なぜ陽子と中性子は電気の性質が違うのに、バラバラに崩壊せず原子核を作っていられるのか?ここで湯川は仮説を立てた。両者の間にはとってもとっても小さな粒子「中間子」が存在していて、それをキャッチボールすることで離れ離れにならないのだと。彼がこの予言を日本数学物 理学会で初めて発表したのは1934年、まだ27歳の若さだった。

湯川の仮説は一部の学者から注目されたものの、物理学界全体では殆ど鼻も引っ掛けられなかった。また第二次世界大戦が勃発した為に検証どころではなくなってしまった。英国の学者によって実証されたのは戦争終結から2年が経った1947年(論文発表から13年後)。中間子が実在したことはビッグ・ニュースとなって世界を駆け巡り、これを受けて1949年、42歳の湯川は日本人で初めてノーベル賞を受賞した。敗戦からまだ4年、自信を失ったまま傷の癒えていない日本人にとって、この物理学賞受賞という明るいニュースは大いなる希望となった。湯川は、ノーベル賞の賞金の一部を奨学金制度設立に用い、物理学研究で後進の育成に務めた。

このノーベル賞受賞の前年、� ��川はオッペンハイマー博士から米国に客員教授として招かれ、今後の人生を変える重大な体験をする。オッペンハイマーはその昔、彼が関っていた専門誌へ湯川が投稿した「中間子論」を一笑に付し、論文掲載を拒否したことがあった。また、自身が開発を指揮した原爆が3年前に日本へ投下されたことへの自責の念もあり、湯川を世界トップクラスの研究所へ招いたのだ。湯川が米国に到着すると、すぐにある人物が研究室を訪ねて来た。アインシュタインだ。
湯川は扉を開けて驚いた。彼のヒーローでもある、70歳になろうかというあのアインシュタインが、湯川の両手を握り締めて激しく泣き出したのだ!そして、何度もこう繰り返した「原爆で何の罪もない日本人を傷つけてしまった…許して下さい」。原爆はアインシュタイン が1905年に発表した特殊相対性理論、E = mc2という公式を基にした兵器だった。アインシュタインはナチスの迫害を受けてアメリカに亡命したユダヤ人。彼はヒトラーが原爆の開発に着手したことを知って危機感を持ち、1939年、ルーズベルト米大統領に対して「絶対にドイツより先に核兵器を製造せねばならない」と進言したのだ。
※1954年、死の前年にアインシュタインは「もし私があのヒロシマとナガサキのことを予見していたなら、1905年に発見した公式を破棄していただろう」と語っている。

目の前で世界最高の科学者が肩を震わせて涙に暮れている姿を見て、湯川は大変な衝撃を受けた。「人間」アインシュタインの良心に触れた彼は、学者は研究室の中が世界の全てになりがちだが、世界の平和なくして学問はないという考えに至り、以後、積極的に平� �運動に取り組んでいく。彼はまずアインシュタインが推進する世界連邦運動に加わった。これは世界を連邦制にすることで、国家から領土拡大の野望を駆逐するものだ。そして各国の指導者に核兵器廃棄を勧告する平和宣言『ラッセル=アインシュタイン宣言』に署名した11名(全員がノーベル賞受賞者)に名を連ね、科学者を中心としたパグウォッシュ会議(1995年ノーベル平和賞受賞)に参加してゆく。国内では川端康成らと世界平和アピール7人委員会を結成し、反戦と核兵器全廃を訴え続けた。そして地球共同体を夢見ながら1981年74歳で永眠した。

京都を訪れたなら国立京都国際会館に足を運んで欲しい。入口にはこんな湯川秀樹の碑文がある--『世界は一つ』。

この巡礼は胸に深く刻まれている。当日、道に迷ってしまい� ��都・知恩院に着いたのは16時35分。普通、お寺は17時に山門が閉まるので、それでもまだ約30分はあると思っていたら、なんと知恩院は16時半閉門だった。ショック!ここまで来たのに「ハイそうですか」とすぐ帰れる訳もなく、インターホンを探しぐるぐる周った。すると参拝者用の門はすべて閉まっていたものの、お寺関係者の車が頻繁に出入りする裏門を発見した!自分は守衛のおじさんに出来る限りのトホホ顔で「ひと目でいいから湯川さんに会わせて下さいッ!」と懇願し、"30分以内に戻って来る"という条件付で内部に入ることを許可された(降り出した雨で濡れネズミだったのも、悲愴感をかもし出していた)。喜び勇んでダッシュするとまたしても検問所!そこの守衛とも同じやり取りを繰り返した。タイムリミットは30分 。さっそくお寺の敷地内にいる小坊主や社務所の職員に、片っ端から墓の場所を訊きまくった。ところが、「え?湯川さんの墓がここにあるんですか?」と逆に質問されてばかり!自分は青くなって、すっかり人気(ひとけ)の消えた知恩院の広い敷地を駆けずり回った。そのうちやっと「湯川さんの墓は知らんが、墓地ならあっちにあるで」と情報を掴み、教えられた方向へ爆進。墓地は一番奥だった。残り13分!


「ウギャーッ!」墓地は広かった!"こんなの見つけるだけで1時間以上かかるよ(涙)"そう思って立ちすくんでいたら、側の庫裏(くり)から帰ろうとするオバサン(お手伝いさん?)を発見!この人はとても親切な人で、僕を庫裏に連れて行くと奥の住職を呼んでくれた!おじいさんの住職は「口では説明しにくいから」とわざわざ彼の墓前まで案内して下さった。オバサンも「いや〜、あたしも見たいわ。7年おるのに知らんかったわ」とついて来られた。ついにたどり着いた墓の前でハハーッと合掌。ほんと、何とか会えて良かった!もう既に時間ギリギリだったが、住職とオバサンが去った後、墓に手を置いてソウルトークに入った。"ノーベル賞すごいッス!""あと半年で21世紀 ッスよ"とか…。

写真を撮り終えて帰ろうとすると、先ほどのオバサンが墓地の入口に立っているではないか。「あれれ?帰られたんじゃなかったのですか?」「あんたが中にいるの知らんと誰かが門に鍵かけたらアカンと思って心配になってなぁ」「それで出てくるまで待ってて下さったんですか!?」「そういうこっちゃ」あうう…ありがとうオバサン!その後、ダッシュで裏門へ。15分オーバーだった。"守衛さん怒ってるだろうな…"とビビッてると、第2検問の守衛さん「おう、会えたんか!?」「(ずっと後ろにオバサンが見えたんで)ハ、ハイッ!あの人に教えてもろたんです!」「そうか!良かったなァ!」第1検問の守衛「出てこうへんから心配したがな。お墓が見つからん言うて泣いとるんちゃうかとおもて」。
みんな、めっちゃいい人だった!!

「一日生きることは、一歩進むことでありたい」(湯川秀樹)
「(自分の中に潜在しているものに)わからんものがあって、自分でも思いがけんことが出来るかもわからない。人間生きているということは、実際そういうことだと思うのですがね」(湯川秀樹)


 

国立京都国際会館の入口にある湯川秀樹の碑文

★北里 柴三郎/Shibasaburo Kitasato 1852.12.20-1931.6.13 (東京都、港区、青山霊園 78歳)2000&06&10



日本が世界に誇る細菌学者、北里柴三郎は1852年熊本に生まれた。医学を勉強していた彼は34歳でドイツに留学し、細菌学者コッホに師事。破傷風菌の血清を作ることに成功し世界を驚かせた。40歳で帰国した彼は日本にもドイツのような立派な伝染病研究所を作ろうと燃えていたが、彼を待ち受けていたものは先輩学者たちのねたみと嫉妬だった。文部省や東大医学部の教授陣から邪魔者扱いされ、自分の研究すら思うように進まなかった。その頃ペンシルベニア大学から北里へ、研究所の場所と資金を提供するのでフィラデルフィアへ来ないかという誘いがあった。これを知った福沢諭吉は「こりゃイカン!なんとしても頭脳流出を阻止せねば」と、自分の土地を提供し北里が所長となる私設伝染病研究所を建設した(41歳)。翌年、中� �以来人類が死の病として恐れていたペスト菌を北里は発見する。その後、同研究所は国立となり国の管理下に入った。

62歳の時、北里は新聞を読んで仰天する。自分の研究所が文部省の管轄になり、文部省は研究所を東大医学部の付属施設にするというのだ!明らかに何らかの政治的思惑が働いた決定だった。仇敵のような東大医学部の傘下に入れば、北里は東大側が選ぶテーマしか、研究出来なくなってしまう。彼はキレた!「おんどりゃーっ、ふざけんじゃねぇ!東大と文部省がグルになっては自由な研究が出来ぬわい!」。彼は辞表を叩き付け、文部省に対抗して自ら私財を注ぎ込み北里研究所を作る決心をした。
北里が辞表を出したことを知った他の所員たちは、彼の下で働きたいと次々と申し出、ついには全員が辞表を提� �したのであった。守衛や事務員までが辞表を出したと聞いた北里は、人目を構わず号泣したという。文部省の伝染病研究所はもぬけの殻になった。
翌年、北里研究所の開所式が盛大に行なわれたが、文部省からは一言の祝辞もなかったという。


★パブロフ/Ivan Pavlov 1849.9.14-1936.2.27 (ロシア、ペテルブルグ 86歳)2005
Volkovskoye Memorial Cemetery, Saint Petersburg, Russian Federation

 

偶然発見したパブロフの墓。デカい!!※犬は周囲にいなかった

★ジョージ・スチーブンソン/George Stephenson 1781.6.9-1848.8.12 (イギリス、チェスタフィールド 67歳)2005
Trinity Churchyard, Chesterfield, Derbyshire, England

長年の風雨で墓石の先がポッキリと折れていた。町の英雄のハズなのに、なぜ修復されないんだろう…。
花もなく、ずっと人が訪れた気配がなかった。墓の前面には30歳で亡くなった妻への愛の言葉が刻まれていた

★アレクサンダー・フレミング/Alexander Fleming 1881.8.6-1955.3.11 (イギリス、ロンドン 73歳)2005
Saint Paul's Cathedral, London, England

ペニシリンの発見者。抗生物質で多くの人が救われている。

★青木 昆陽"甘藷(かんしょ)先生"/Konyou Aoki 1698.5.12-1769.10.12 (東京都、目黒区、瀧泉寺 71歳)2003

蘭学者・青木昆陽の別名は「甘藷先生」。"甘藷"とはサツマイモのことだ。彼はサツマイモの栽培方法を確立し、
それを全国に精力的に広めることで、飢饉時に人々を飢えから救った。墓碑には「甘藷先生墓」と刻まれている。

多くの人命を助けた彼は、"甘藷先生"、"芋神さま"と呼ばれるようになった。

★アンペール(アンペア)/Andre-Marie Ampere 1775.1.20-1836.6.10 (パリ、モンマルトル 61歳)2002
Cimetiere de Montmartre, Paris, France



左側のレリーフがアンペール。墓碑銘に選んだ言葉は「やっと幸福に」。

1775年フランス生まれ。「右ねじの法則」(アンペールの法則)で有名なあの人だ。また、電流の単位アンペアは彼の名にちなんでつけられた。アンペールが14歳の頃フランス革命が起こり、父親は保守派と見なされギロチンにかけられてしまう。また、29歳の時に結婚2年半で愛妻を病気で失い神経症に悩む。その後、ナポレオンに励まされ電気力学の研究を続け、47歳で「右ねじの法則」を発見、電気の磁気作用を解き明かした。

★エドモンド・ハレー/Edmond Halley 1656.10.29-1742.1.14 (イギリス、ロンドン 85歳)2005
Westminster Abbey, London, England
※正式な墓はロンドンのSaint Margaret's Lee Churchyardとのこと

なんと墓碑が彗星のカタチッ!
1656年ロンドン生まれ。彼が26歳の時(1682年)、後にハレー彗星と呼ばれる彗星が突如夜空に現れた。人々は災いの前兆だと恐れたが、親友ニュートンの『プリンキピア』第3巻には、"彗星もまた万有引力の法則に従い、楕円軌道を描いて太陽の周りを周る"と記され、自然の法則に従ったタダの天体運動だと説いていた。「マジかよ?」半信半疑で軌道を計算した結果、76年という数字が浮かび上がる。そこで彼は過去の天文記録を調べて驚愕した。1531年、1607年と、76年ごとに大彗星が現れていたのであるッ!その後ハレーはグリニッジ天文台長となり、「次回は1759年にヤツはやって来るだろう」と予言し85歳で逝った(で、その通り飛んで来た!)。あと17年生きれば確認できたので、なんとか102歳まで生きたかったろうなぁ。

※1986� ��にやって来た時、19歳の自分は興奮して天体望遠鏡をバイトで購入、万全の体制で観測に挑んだ。「ヨーシ、観るぞ!あ、あれ?…ショボッ!!」そう、この年は太陽と地球と彗星の位置関係が、ここ数千年間で最悪の角度にあり、まったく尾が見えなかったのだ(彗星は地球に対してほぼ真正面を向いていた)。ガーン!どんなに尾が長くても面と向き合っていたら見える訳がない。悲惨ッ…。ちなみに次は2062年、あと約60年だ。今度は北の空に大きく広がり、北斗七星よりも長い尾を見せてくれるとのこと。みんな、がんばって長生きしよう!


★ディラック/Paul Dirac 1902.8.8-1984.10.20 (イギリス、ロンドン 82歳)2005
Westminster Abbey, London, England
※正式な墓はアメリカ・フロリダ、TallahasseeのRoselawn Cemeteryとのこと

理論物理学者。陽電子の存在を予言した。多時間理論を唱える。※エヴァンゲリオン「ディラックの海」で有名に

★山脇 東洋/Toyo Yamawaki 1705.12.18-1762.8.8 (京都府、中京区、誓願寺 56歳)2008 医学者


江戸中期の医学者。本名山脇尚徳(なおのり)。京都生まれ。中国の古医方を学びながら実証精神を大切にしていた東洋は、カワウソを解剖した時に当時考えられていた人体の内部構造への疑問がわいた。そして1754年(49歳)に京都所司代(治安担当)の許可をえて、死刑囚の死体を日本で初めて医学解剖する。この結果を1759年(54歳)に、これも日本初となる実証的解剖学書『蔵志』(ぞうし)として刊行。漢方医たちが考えていた人体知識の誤りを指摘した。東洋が行なった人体解剖は冒涜行為として批判を浴びるが、江戸の杉田玄白らを大いに刺激し、オランダの医学書の翻訳させるきっかけとなった。※『解体新書』の刊行は15年後。


牧野 富太郎/Tomitaro Makino 1862.5.22-1742.1.14 (東京都、台東区、谷中霊園 94歳)2008

 

日本の植物学の父。高知県出身。多数の新種を発見し命名した。以下更新中。

★ジャン・ベルナール・レオン・フーコー/Jean Bernard Leon Foucault 1819.9.19-1868.2.11(パリ、モンマルトル 48歳)2009
Cimetiere de Montmartre, Paris, France

  

1851年(32歳)、パリのパンテオンのドームで長い金属線におもりをつけた振り子で地球の自転を証明("フーコーの振り子")。
また、磁場が生む渦電流(フーコー電流)を発見、ジャイロスコープ(回転儀)を考案した。

★ルイ・パスツール/Louis Pasteur 1822.12.27-1895.9.28 (パリ、パスツール研究所 72歳)2009
Pasteur Institute, Paris, France


近代細菌学の開祖。ワクチンの予防接種法を開発し、狂犬病ワクチンなど様々な発明をする。パスツールの墓を訪ねてパリの研究所まで行ったんだけど、
ちょうど学会の期間とか何かでクローズド!うおお、開けてくれ〜い!仕方がないので、建物全体を墓と見なして遙拝した(涙)。※メトロのVolontaires駅からすぐ。

★シャルル・メシエ/Charles Messier 1730.6.26-1817.4.12 (パリ、ペール・ラシェーズ 86歳)2009
Cimetiere du Pere-Lachaise, Paris, France

  

フランスの天文学者で"星雲"の名付け親。星雲を整理して番号をつけた。星雲につく"M"はメシエのM。

★カール・セーガン/Carl Edward Sagan 1934.11.9-1996.12.20 (USA、ニューヨーク州 62歳)2009
Lakeview Cemetery, Ithaca, Tompkins County, New York, USA /605 East Shore Dr Ithaca

 

更新中。NASAの啓蒙天文学者。宇宙空間の非軍事化を訴えてアメリカ国防省と戦った。
私たちの遺伝子中の窒素も、歯の中のカルシウムも、血液中の鉄も、かつて収縮した恒星の内部で作られた。私たちの体は、
すべて星の物質でできている。私たちは、きわめて深い意味において"星の子"なのである」(カール・セーガン)天文学者

★ヴェルナー・フォン・ブラウン/Wernher Magnus Maximilian Freiherr von Braun 1912.3.23-1977.6.16 (USA、ヴァージニア州 65歳)2009

Ivy Hill Cemetery, Alexandria, Alexandria City, Virginia, USA


 

更新中。ロケット技術者。人類が月に行けたのはフォン・ブラウン博士のおかげ!

★ロバート・H・ゴダード/Robert Hutchings Goddard 1882.10.5-1945.8.10 (USA、マサチューセッツ州 62歳)2009

Hope Cemetery, Worcester, Worcester County, Massachusetts, USA Plot: Section 35, Lot 1143


 

「何もかもが失われた時にも未来だけはまだ残っている」(ロバート・H・ゴダード)
ゴダード博士は世界初の液体燃料ロケットを開発!死後になって評価された不遇の人。

★古在 由直/Yoshinao Kozai 文久3年12月20日(1864年1月28日)-昭和9年(1934年)6月18日 (東京都、港区、青山霊園 70歳)2010


農芸化学者。足尾鉱毒事件の調査で農民の味方になり、銅による汚染を実証して世論に問題提議した。京都生まれ。妻・豊子は自由民権運動の活動家で小説家(筆名・清水紫琴)。1899年(35歳)に農学博士となり、翌年東大農科大学教授に就任。1920年(56歳)、東大総長に就任し、5年後に再選した。教授定年制の導入や関東大震災後の大学復興案の策定などに手腕を発揮した。次男・由重はマルクス主義哲学者。

★小川 笙船/Shosen Ogawa 寛文12年(1672年)-宝暦10年6月14日(1760年7月26日) (東京都、豊島区、雑司ヶ谷霊園 88歳)2010


「赤ひげ先生」の愛称で知られる江戸時代の町医者・漢方医。名は広正。1722年(50歳)、目安箱に身寄りのない老人や貧困者のための無料の慈善病院、施薬院(せやくいん)の設置を求める投書をした。これが吉宗の目にとまり、同年暮れ、さっそく小石川御薬園内に養生所が設立された。笙船は養生所で治療にあたり、4年後の1726年、子に職を譲って隠居した。笙船は長寿し、それから34年後の1760年に88歳で他界。当初は小石川・光岳寺に埋葬され、太寧寺に分骨される。後年、雑司ヶ谷霊園へ改葬された。


※当ページの主な参考文献
「世界人物辞典」(旺文社)「エンカルタ百科事典」(マイクロソフト)
「世界の科学者100人」(教育社)「100人の20世紀」(朝日新聞社)

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